特別企画:わが心の"戦争映画"3選 ①『帰郷』『硫黄島からの手紙』『この世界の片隅に』【映画レビュー】
『帰郷』
18歳の時に、映画館で鑑賞。
その時のパンフレットをまだ持っています。
2004年(44歳)の時にDVDを見つけてもう一度見たくなり、購入して鑑賞。今回 これを書く為に18年ぶり(62歳)に鑑賞。
今見てもやはり感動しました。
ベトナム戦争終結(1975年)から3年後、本作と同じ年に「ディア・ハンター」、翌年には「地獄の黙示録」が公開されています。
本作には、戦場シーンは無いけれど、当時のアメリカの人々の気分や感情を肌感覚でとらえていて、時代の通俗性と人間の本質を描いています。
戦争の苦しみが戦場だけではないということを教えてくれます。
終局に、車椅子のルークが高校生を前にスピーチをします。
その中で「こんな身体になってしまったが頭は良くなった」「敵は相手ではなく、戦争そのものが敵なんだ」と語ります。「きみたちは未来を選択できる」とも。ルーク(ジョン・ヴォイド)の真摯な瞳に圧倒されます。
『硫黄島からの手紙』
60年間、日本人のほとんどの記憶から忘れ去られようとしていた硫黄島の死者たちの霊はこの映画によって少なからぬ慰めを得たと私は思います。
この映画は日本ではなくアメリカのフィルムメーカーによって作られました。
硫黄島で死んだ二万人の兵士を鎮魂する映画はどう考えても日本人が自力で作るべき映画でした。にもかかわらず、日本には戦後60年間それだけの志と力量のあるフィルムメーカーが出てこなかった。
アメリカ人にはアメリカ人の戦争の物語があり、日本人には日本人の戦争の物語があります。そして、ひとりひとりのアメリカ人日本人にとっても、語り継ぐ戦争の物語はひとりひとり違っています。
クリント・イーストウッド監督は、この映画で、説明的な演技や感情表現を出来るだけ抑制させ、画面は、観客が予想するよりも早くカットアウトさせます。そのせいで観客は自分で言葉を書き加え、感情を補充します。それと気づかないうちに映画の「創造」に参加させられています。
そこには、あるオリジナリティが加算され、私たちは、それぞれに少しだけ違う「私だけの映画」を見ることになります。
死者ついて、「このように記憶せよ」「このように物語れ」と他者に強要する権利は誰にもありません。
「戦死者を弔う」ための正しい儀礼があるとすれば、それはこの映画でクリント・イーストウッドが採用したような物静かで控えめな語法をもって語られる他にないと思います。
『この世界の片隅に』
画面に映る人が、風が、海が、瑞々しい輝きを放ち、もうほとんどの日本人が体験したことのないはずの時代の息吹が画面の隅々から発せられている。
その時代の日常の中にある匂いが伝わって来た気がした。絵の素朴さと語り(声優たち)の素朴さがそうさせているだと思った。
戦争のある日常を伝える作品。
日常のなかに平然と悲劇が入り込む戦時下の特殊性と食べたり、笑ったり、喧嘩したり、愛したりといった普遍的な営みが同居する。そんな日常を温かみある手描きの作画で物語は進んでいく。
身近な生活圏にたくさんの不思議があり、さまざまな人物、出来事と結びつき、生き生きとした物語を形成する。
空襲で生き残った人たちの話を聞き、生死を分けた理由を探る。戦争で家が焼けた人と残った人その人その人の立つ場所が少し違えば、見える世界も変わる。激動の時代の中で「立ち止まる力」や「生き延びる方法」を学んでいく。
国の歴史というよりも家族史だ。
歴史に翻弄された時代にあった一つ屋根の下の生活は、時間を越えて私たちの物語になる。
(text by NARDAM)
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