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特別企画:この夏に見たいスポーツ映画特集②『ミリオンダラー・ベイビー』を観て、「パリ五輪女子ボクシング性別疑義騒動」について考えてみた

監 督: クリント・イーストウッド
出 演: クリント・イーストウッド
     ヒラリー・スワンク 
     モーガン・フリーマン
公 開:2005年5月28日 日本公開


オリンピックや甲子園の報道を見たり読んだりしていると、「執念」「精神力」「絆」「団結」なんて言葉が飛び交います。

日常では、そう言った言葉を否定的にとらえ、「科学的トーレニング」とか「合理的環境」などと偉そうことを言っているのですが、リアルタイムで観戦すると「執念」「精神力」「絆」「団結」と言った言葉に共感している自分がいます。

スポーツ観戦は、大人を子供のように無邪気にさせ、後で色々の事を考える材料を提供してくれます。先日のパリオリンピックでは女子ボクシングの金メダリストが、SNSで多くの誹謗中傷にさらされました。そこに至った過程を調べていないので、何も言うことが出来ません。調べようと思っても、どれが本当のことなのか分からなくなり、モヤモヤした気分でいました。

クリント・イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』をHDレコーダーに録画してあったことを思い出し、この気分を晴らしてくれるような予感がして、今回 もう一度 鑑賞することにしました。

小さなボクシングジムを営む老トレーナーのフランキー(クリント・イーストウッド)の所に、31歳の女性ボクサーのマギー(ヒラリー・スワンク)に指導してほしいと頼みに来ます。現状から抜け出すためにはボクシングしかない、と強い信念を持つマギー。初めは「女は教えない」とにべもなく断りますが、マギーのしつこさと熱意に負けて、彼女のトレーナーを引き受けます。

娘と疎遠になり孤独に生きるフランキー、一方のマギーは好きだった父と死別し、母親との関係が険悪化しています。心を通わせる相手のいない二人は、次第に互いが唯一無二の存在となっていきます。

親子ほど年の離れた二人が、ともに目標に向かって突き進んでいきます。その求道的な姿勢は、過酷であるがゆえに美しく輝きます。やがてマギーは連戦連勝し始め、二人に信頼関係が生まれます。

遠征試合の帰り、マギーの故郷に立ち寄った二人は彼女の行きつけだったダイナーに行きます。マギーは、ここは父との思い出が詰まった場所なのだと打ち明けます。簡素な作りの薄暗いダイナーで、カウンターに並んで腰掛ける二人の姿は感動的なシーンです。二人ともくつろぎ、今までみせたことのない柔らかな表情を浮かべています。

この作品は、ボクシング映画ですが、男と女の関係をめぐるラブストーリーでもあります。恋愛めいたシーンはまったく描かれいないのに、年老いたフランキーが、自分の娘のようなマギーとの愛を成就させるまでを描いた映画なのです。

私の個人的な思いですが、この映画を見るまでボクシングは男性性が強い競技で、”女性同士が殴り合う”という女子ボクシング自体に少し拒否感がありました。女性ボクサーのイメージは「男みたいな女」でギラギラしていて「私は女よ!だから…」と押しつけがましく、「私が、私が、」と自分を表現することに騒がしさを感じました。

この映画でマギーを演じるヒラリー・スワンクスは、男性と女性の中間の立ち位置なのですが、「私は女よ!だから…」という押しつけがましさがどこにもありません。「女なんですけど、それが何か問題でも?」という肩の力の抜けた性意識なんです。それが不思議な輝きを発しています。彼女がクリント・イーストウッドとモーガン・フリーマンという圧倒的な存在感をもつ名優に挟まれてなお堂々たる存在を示すことのできた理由はそこにあると思います。

ヒラリー・スワンクはこの映画で「肩の力の抜けた性意識」「騒がしくない性」を演じています。これは個人的に求めたものではなく、別のところから生まれてきたものように思います。それは彼女がボクシングをする理由が結局「よくわからない」ことにも通じています。女性であることを彼女が選んだわけではないように、ボクサーもたぶん彼女が進んで選んだ職業ではないのです。むしろ、ボクシングが彼女を選択したのです。彼女はその宿命に従って、美しく最高速で駆け抜けます。

これまでと全く違うタイプの女性像を「ヒロイン」として認識することができました。それは宿命と「闘う」女性ではなく、おのれの宿命をまっすぐに「受け容れる」女性です。

ヒラリー・スワンクはクリント・イーストウッドとモーガン・フリーマンの間に立って、彼らと同じように無欲で冷静で決然としています。そのような女性を「美しい」と感じる感受性を私は健全だと思います。

(text by NARDAM)



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