【映画】「侍タイムスリッパー」感想・レビュー・解説
いやー、これはなかなか面白い映画だったなぁ!自主制作映画とは、驚きだ。
さて、本作『侍タイムスリッパー』のことを知ったのはたぶん、一昨日ぐらいだと思う。先週の金曜日ぐらいから全国で拡大公開されたことを伝える記事の見出しだけ見たのだ。そこには「カメ止めの奇跡再来」と書かれていた。「カメ止め」とはもちろん映画『カメラを止めるな!』のことだ。そして本作『侍タイムスリッパー』も『カメラを止めるな!』と同様、口コミで評判が広まった作品なのだ。
本作は8月に、池袋シネマ・ロサという東京の1館のみで公開された。そして先週の9月13日から、全国100館以上での拡大公開となったのだ。僕はTOHOシネマズ日比谷で見たが、400弱ある座席の7割ぐらいは埋まっていたと思う。僕はネット記事の見出しをたまたま目にしただけだが、恐らくSNSなどではかなり話題になっているのだろう。しかも、ネット記事で読んだのだが、監督の安田淳一は「カメ止めの奇跡は再現できるのではないか?」と考え、かなり戦略的に本作を作ったのだそうだ。そうだとしたら、ちょっと凄すぎだろう。
そしてそんな話題作の中身はというと、メチャクチャ面白かった。最後ちょっと涙が溢れたことも含め、まさかこんな面白い作品とは思わずに驚かされてしまった。
しかも、「幕末の侍が現代にタイムスリップしてくる」という、よくあると言えばあるし、なんならチープにしかならなそうな作品で、爆笑とシリアスと感動を生み出しているのだ。映画を観ながら、客席から何度も笑い声が上がっていたが(もちろん僕も笑った)、そういうコメディ的な部分もありつつ、根底にはちゃんとシリアスなテーマ性もあり、その上で涙を誘うようなシーンもあったりするのだ。
メチャクチャ良く出来てる。
しかし本作は、そういう「単館から大ヒットした」というだけではない異常さがある。それは「ベースが時代劇である」という点だ。どう考えても、自主制作映画でやるテーマではないだろう。常軌を逸していると思う。衣装やセットやら死ぬほど金が掛かるはずだ。実際に監督は、愛車を売って資金を捻出したとかで、映画が完成した時点での貯金がわずか7000円だったそう。
しかしそうだとしても、本格的な時代劇(本作は劇中劇のような時代劇シーンがとても多い)を撮る資金を捻出するのは相当困難なはずだ。ただ、本作は、東映京都撮影所が相当協力してくれているという。ネット記事には「かなり持ち出しで協力した」みたいなことが書かれていた。『侍タイムスリッパー』を制作したのは「未来映画社」というところだが、そこから拠出された撮影スタッフは僅か10人ほどだったという。そんなんで、本格的な時代劇が撮れるはずもない。ネット記事には「東映京都撮影所が異例の協力をした自主制作映画」と書かれているが、まさにその通りだろう。そしてそれが実現したのはやはり、脚本が面白かったからなのだと思う(公式HPにもそう書かれている)。確かに、こんな脚本を読んだら、「金は無いみたいだけど協力してやるか!」みたいに感じるかもしれない。
さて、全然内容の話をしないがもう少しだけ。本作は「きっとエンドロールが面白いだろうなぁ」と思って見ていたのだけど、案の定、監督の「安田淳一」の名前があちこちに出てきたりと、自主制作映画感が満載だった。ただ、個人的に最も驚いたのが、本作でメインどころの役を演じた沙倉ゆうのである。彼女は本作で「時代劇の監督を目指す助監督」役として登場するのだが、なんと彼女は、映画『侍タイムスリッパー』の撮影においても実際に助監督を務めたそうなのだ。そんなこと出来るのか? と感じてしまうが、まあ撮影隊が10人しかいないならやるしかないのだろう。本作はエンドロールの流れるスピードが早く、普段映画を見ている時には「もっと早く進めー」とか思いながら見ているのだけど、本作の場合は「もうちょっとゆっくりして」と思った。たぶん僕が気づかなかっただけで、もっと色んな人の名前が色んなところに出ていたと思うので、それももうちょっと観たかったなと思う。ちなみに、沙倉ゆうのは僕より年上だそうだ。マジかよ。
さてというわけで、前置きが長くなったが、内容に触れたいと思う。
物語は、江戸末期から始まる。会津藩士である高坂新左衛門は、同藩の仲間と共に家老じきじきの密命を預かった。倒幕派の長州藩士を打てというのだ。そのため、寺から男が出てくるのを待ち伏せし襲いかかったのだが、相手と刃を交えた瞬間に雷に打たれ、気を失ってしまった。
目覚めた高坂は、江戸の町中に横たわっていた。昨日は京都にいたはずなのに、何故……?よく分からないまま声がする方へと歩くと、町娘が男たちに襲われている様子を目にしてしまう。そこにやってきたのが、心配無用之介と名乗る男。高坂は、彼に助太刀すべく刀を抜くが……。
「カット!!」
実はそこは撮影所で、時代劇の撮影中だったのだ。高坂は「別の撮影現場の斬られ役が紛れ込んだ」と扱われ、助監督の山本優子に追い出されてしまった。その後、撮影所内をうろうろし、巨石を若い女性が運んだり、ゾンビのようなメイクの町人に驚いたりしていたところ、撮影で使うクレーンに頭をぶつけ倒れてしまう。
そのまま入院することになったが、窓から見える街並みを目にして驚愕した。自分は一体どこにいるのだろうか。その後、ひょんなきっかけから、自分が未来にやってきたことを知った高坂は、たまたまあの決戦の日に待ち伏せしていた寺を見つけ、なんだかんだで寺に住まわせてもらうことになった。
その後いくつかの偶然が重なったことで、彼は「東映剣」という斬られ役集団に弟子入りすることになるのだが……。
というような話です。
冒頭からしばらくは、コメディ的に展開していく。もちろんそれは「幕末の侍が、何もかもが変わった現代のあらゆることに驚く」みたいな描写もあるのだけど、決してそれだけで面白さを生み出しているわけではない。冒頭で絡んでくるのは主に、武士の高坂、そんな高坂を受け入れる寺の老夫婦、そして助監督の山本の4人だが、彼らが絶妙な掛け合いをするので、それがとても面白いのだ。特に寺の夫婦が凄く良くて、「どう考えても変な高坂」を絶妙な感じで笑い飛ばしつつ、「幕末の武士である高坂が現代で生活していることの違和感」の大半を帳消しにするような役割を見事に担っていて素晴らしい。この寺の夫婦を含めた掛け合いが、とにかく前半の見どころである。
そしてそこから、高坂が斬られ役を目指し注目を集めるようになっていくのだけど、それ以降の展開はちょっとここでは伏せよう。想定できた人もいるかもしれないけど、個人的には「なるほど、そんな展開になるのか!」という、ちょっと驚きの物語で、出来れば知らずに観てほしいと思う。
本作については正直、物語が始まった直後から「一体どうやって物語を展開させるつもりなんだろう?」と思っていた。というのも、冒頭からしばらくの描写から「幕末に帰る的な展開にはならない」と分かるからだ。もしそういう展開になるなら、「どういう条件がクリアされれば幕末に戻れるのか?」みたいな情報が提示されないと成立しないが、一向にそんな話は出てこない。つまり割と早い段階で、「本作は現代で物語を完結させるんだな」と思っていた。
しかしそうだとして、こっからどうするんだろう? と思っていた。正直、展開のさせようがないだろう、と。冒頭は「幕末の侍が現代にやってきてビックリ」みたいな出落ちの展開を続けていればいいが、そんなのは長く続けられない。じゃあその後は? 高坂は一応、「自分が未来にやってきてしまった」と理解しており、さらに「ここで生きていくしかない」とも覚悟している。しかしかといって、何が出来るというわけでもないのだ。運良く寺に拾ってもらい、衣食住に困ることはなくなったが、物語という観点で言えばそんなことは展開でもなんでもない。
というわけで、131分もある映画(そう、本作は、自主制作映画なのに131分もあるのだ)をどう展開させるのだろうと思っていたのだ。
舞台が京都なので、「撮影所で斬られ役になる」というのは順当だと感じたが(僕はこれから観ようと思っている映画について基本的に調べないで行くので、ポスタービジュアルの「それがし、『斬られ役』にござる。」というフレーズさえ知らずに観た)、その後の展開はちょっとビックリさせられた。そして、その「驚きの展開」以降は、かなりシリアスに物語が展開して行くことになる。この「シリアスさ」については、展開に触れないと決めた以上書けないが、前半のコメディ的な展開からまさかこんな話になるとはという感じだった。
さて、具体的には触れないものの、後半の「シリアスさ」が生まれる理由については書くことにしよう。それは、「ごく一部の登場人物と観客にしか知り得ないある事実」が存在するからなのだ。そしてこの「ある事実」によって、「ごく一部の登場人物(と観客)」と「その他の登場人物」とでは、物語がまったく違って見えることになる。この構図がとにかく絶妙で、「シリアスなのにユーモア」という、明らかに矛盾した状況を成立させている要素にもなっている。
そして、後半で描かれる「シリアスさ」は、「失われたもの、失われていくかもしれないもの」への悲哀みたいなものが内包されていて、だからこそ「泣ける」みたいな要素も加わることになる。特に、「台本の改訂」を読んで以降の高坂の心情には胸打たれるし、そしてだからこそ、普通なら「リアリティに欠ける」と判断されそうなラスト付近のぶっ飛んだシーンにも真実味が生まれることになる。
その「ラスト付近のぶっ飛んだシーン」というのは殺陣のシーンなのだが、その迫力はちょっと凄まじかった。本作は本格的な時代劇をやっているので、全体的に殺陣のシーンが多く、そのどれもが迫力を感じさせるものだったが、ラストの殺陣はちょっと別格だった。何故殺陣のシーンが「ぶっ飛んでいる」のかは伏せるが、それを生み出しているある要素が「ホントのこと」のようにも感じられるし、さらに役者の実力や気迫みたいなものも乗っかって、まさに「手に汗握る」みたいなシーンになっていた。いや、ホントに凄かった。
そして、そんな超シリアスなシーンの直後に、「今日がその日ではない」の”天丼”で爆笑をかっさらうのだから、緩急も凄いし、脚本も見事だし、とにかく「上手いなぁ」と思わされっぱなしだった。
さて、本作の面白さにはもう1つ、「高坂新左衛門は何をするか分からない」という要素が存在していると思う。
高坂は幕末からタイムスリップしてきた武士であり、当然、現代の常識など何も知らない。当然、法律や道徳も幕末とはまったく違うわけで、だから高坂には「『我々の感覚から外れたこと』をしでかす可能性」が常にあるということになる。そしてだからこそ、なんかハラハラさせられるのだ。
例えば彼は、斬られ役になるための訓練を東映剣の師匠(この役を演じた人物は、実際に東映剣の役員・会長を歴任した人だそうだ)を行うのだが、斬られなければならないはずの高坂は、つい武士の性で師匠を斬ってしまう。これはまあ、一般的な感覚とは離れた状況だから大したことはないが、同じようなことはいくらでも高坂の日常で起こり得るのである。だから物語を追いながら、「もしかしたらここで、高坂がなんかマズいことをしちゃうんじゃないか」みたいな緊迫感が生まれることになり、そのことが「予測不可能性」みたいなものを生み出しているようにも感じられた。
というわけで、まあよく出来ていたなと思う。自主制作映画だが、東映京都撮影所の全面協力という意味では自主制作映画のクオリティではない。公式HPにはスタッフの紹介もされているが、殺陣も床山(時代劇のカツラとメイクをする人)も衣装も証明も、時代劇では知らない人がいないというぐらいの一流だそうだ。
また、物語の展開から誰もが想像するだろうが、斬られ役から映画主演にまで上り詰めた福本清三の著書のタイトル『どこかで誰かが見ていてくれる』がセリフの中に入っていたり、ラストには福本清三への献辞が記されたりしていた。公式HPによると、東映剣の師匠役や元々、福本清三が務めるはずだったという。ホントに、東映京都撮影所オールスター揃い踏みみたいな映画なのだろう。
そんな、ミニマムとマキシマムが融合したような作品で、なかなか類例のない映画と言っていいのではないかと思う。実に面白い作品だった。