【映画】「憐れみの3章」感想・レビュー・解説

まったく意味は分からなかったのだけど、メチャクチャ面白かったな、この映画。不思議だ。何が面白いのか全然分からないし説明も出来ないんだけど、面白い。なんか凄く「映画を観てるなぁ」という感覚になれた。ちなみに僕は、ヨルゴス・ランティモス監督の前作『哀れなるものたち』はあんまり面白くなくて、「うーん」って感じだった。というわけで、僕と同じように『哀れなるものたち』がダメだった人も、本作は観てみてもいいんじゃないかと思う。

本作は、まず構成がちょっと変わっている。タイトルにある通り3章の物語、つまり「まったく異なる3つの物語」で構成されているのだが、ただ、主要な登場人物を演じる役者は同じ面々である。僕がちゃんと知っているのはエマ・ストーンぐらいだが、彼女は、『R.M.F.の死』ではリタ、『R.M.F.は飛ぶ』ではリズ、そして『R.M.F.はサンドイッチを食べる』ではエミリーという名前で出てくるのである。ちなみにたまたまかもしれないが、「Lita」「Liz」「Emily」とすべて「L」が入っている。となると、ジェシー・プレモンスも役もそうかと思ったけど、「ロバート(Robert)」「ダニエル(Daniel)」「アンドリュー(Andrew)」と上手くいかなかった。「ダニエル」に「R」が入ってると、割と綺麗だったんだけど。

まあそんなことはどうでもいいのだけど、とにかく、「3つの物語において、同じ役者が、全然違う役として登場する」というのが本作の構成である。物語同士にはまったく繋がりがなく(少なくとも僕はそう理解した)、「役者が同じ」以外に共通点は特にない。実に変わった構成の物語である。

ただ、これは「共通点」と言えるようなものではないのだが、3つとも、実に奇妙な物語である。その奇妙さは、「ルールの分からないスポーツを鑑賞している」みたいな感じだろうか。「物語世界を支配する理屈が分からない」という感じで、登場人物たちの行動原理や目的がなかなか掴めない。物語を追っていくと、なんとなく理解できることもあるのだが、しかしその「理解」は「そういう理屈で物事が動いていることはとりあえず承知した」という程度のものであり、決して「納得」ではない。例えば「カバディ」というスポーツは「攻撃時に『カバディ』と言い続けなければならない」というルールになっている。この場合、「『カバディ』と言わなきゃいけないこと」は理解したが、しかし「何故『カバディ』と言わなければならないのか」という納得には至っていない。そういう感覚だと思ってもらえればいいだろう。

ただ、繰り返しになるが、164分もある長い物語は、最後までとても面白かった。本当に不思議だ。「ルールの分からないスポーツ」を観続けるのは普通は苦痛だと思うのだが、本作はそんな感覚にはならなかった。僕の場合、「エマ・ストーンが好き」とか「この監督の世界観はたまらん」とか「音響がメチャクチャ良かった」みたいな感覚はあまりないので、映画を観る時は大体シンプルに「ストーリー」を追っている。そして、「その肝心な『ストーリー』が意味不明な映画」が面白かったのだ。こんな奇妙な話を「面白い」と思わせる監督はちょっと凄いなと思う。

というわけで一旦、「ストーリーの意味不明さ」を理解してもらうために、内容を紹介しておこう。

『R.M.F.の死』
ロバートは深夜、車に乗ったまま待っていた。彼にはしなければならないことがある。そう、目の前を走り抜ける予定の車に全力で突っ込まなければならないのだ。ターゲットとなる車を確認し、彼はアクセルを踏んだ。そして、実際に車にぶつかりはしたのだが、それは十分と言えるような成果ではなかった。怖気付いて、アクセルを踏み切れなかったからだ。

翌日、レイモンドに呼ばれたロバートは、前日の不手際を謝罪した。しかし、レイモンドから改めて同じことをするように言われたロバートは、「他のことは何でもやるが、これだけは出来ない」と言って断ったのだ。10年の付き合いで、初めてのことである。レイモンドは、「2時間バーで考え直してから、改めて結果を伝えに来なさい」と言って去っていった。

これまでロバートは、レイモンドの指示した通りに生きてきた。妻のサラと付き合ったのも、セックスはするが子どもは作らなかったのも、住む家も、すべてレイモンドの指示だった。それでロバートは、あらゆるものを手にすることが出来たし、不自由のない生活が約束されていた。

しかし2時間後、ロバートは改めてレイモンドに依頼を断ることに決めた。のだが……。

『R.M.F.は飛ぶ』
警察官のダニエルは、気もそぞろのまま仕事をしていた。海洋研究者である妻リズが、他の研究者と共に船に乗って出かけた後行方不明になってしまったのだ。同僚のニールとその妻はダニエルのことを心配してくれている。彼らは、4人で乱交を楽しむ仲なのだ。

そんなある日、妻が無事発見されたと知らせを受ける。実に幸運だった。5人のメンバーの内3人は死亡、1人は片脚の切断を余儀なくされたが、リズは衰弱こそしていたものの、外傷もなく助け出されたからだ。

しかし、妻の帰りを待ちわびたダニエルは、リズに対する違和感を募らせていく。失踪前は履けていた靴に足が入らなかったり、「僕の一番好きな曲を掛けて」と車で頼んだ時にも一番ではない曲をセレクトしたのである。

ダニエルは思う。妻の姿形をしたこの女は、一体誰なんだ、と。

『R.M.F.はサンドイッチを食べる』
アンドリューとエミリーの2人は、ある女性を探している。分かっていることは多くはない。双子で、一方は既に亡くなっている。それぐらいだ。しかしエミリーには「見れば分かる」という確信があった。夢で観た、プールの底の排水口に髪が挟まった自分を助けてくれたシンクロナイズドスイミングの双子こそ、探している人物なのだと。

2人は、いつも水を持ち歩いている。持参している水以外は飲まないようだ。それは、彼らが慕う夫妻の涙が混じった水であり、2人を含む数十人のメンバーが共同生活を行っている。エミリーには実は夫と娘がいるのだが、彼らの元から失踪し、今はこの集団の中で生活をしている。

しかしエミリーは、こっそりと本来の自宅に戻っては、娘へのプレゼントをベッドに置いたりしている。彼女が共同生活をしている集団は「穢れ」を嫌うため、「涙入りの水」を飲まない人たちとは距離を置かなければならず、彼女の行為は本来であれば認められないのだが、そのことを察しているアンドリューは黙認している。

そんなある日、ダイナーで食事をしていると、見知らぬ女性から「あなたたちが探しているのは、私の双子の姉よ」と言われ……。

というような話です。

自分で書いていてもまったく意味が分からないし、読んでいる人も全然理解できないだろう。そして、観たって別に分からない。「物語がどこかに着地する」みたいなことが別にないのだけど、それでも惹きつける何かがあるのが凄い。しかも、3つの物語はすべて全然違う話なのだけど、「全体のトーン」は共通している感じも凄いなと思う。こんな訳わからん物語を3つも作ってたら、「てんでばらばらの雰囲気」になってもおかしくないと思うのだけど、本作は3つの物語の「統一感」みたいなものが凄くて、「よくもまあ、こんな似たようなトーンの奇妙な物語を3つも揃えたものだ」という感じになった。凄いものだ。

さて、その「トーン」は色んな要素によって生み出されているとは思うのだけど、物語のベースとなる設定の部分で言えば、「『人知を超えた何か』に対する畏怖」みたいなことが共通しているような気はした。まあ「一神教の国で作った映画」という先入観もあるのだけど。

『R.M.F.の死』では「すべての選択肢を与え続ける男」、『R.M.F.は飛ぶ』では「リズに姿形を似せてやってきた謎の存在」、そして『R.M.F.はサンドイッチを食べる』では「『水』を介して信者を支配する教祖」が「人知を超えた何か」に該当すると思うのだけど、それらに対する恐怖、無力感、信頼、畏敬、諦念、みたいなものが、どの物語にも通底している感じがあった。それがなんとなく「同じようなトーン」を生んでいるのではないかという気がする。

どの話も、割と狂気じみた感じで終わるのだけど、やはり2番目の『R.M.F.は飛ぶ』が凄かったなぁ。「まさかな」と思いながら観てたけど、そのまさかが実際に起こって、「すげぇことするな」って感じだった。普通なら、物語のラストとしてまず成立しないと思うのだけど、本作の場合、そこまでに積み上げてきた不穏な感じがちゃんと利いていて、「むしろこれ以外のラストはないだろう」という気分にさせられる。これ、脚本の段階で役者たちはどんな風に捉えたんだろうなぁ。映像とか音響ありきで成立しているはずだから、文字だけだと「いやいや、無理でしょ」みたいな感じになりそうな気がする。まあ、「監督を信頼しているから」ということでその辺りもクリアされたんだろうけど。

「監督を信頼している」と言えば、邦題も凄いなと思う。『憐れみの3章』って、「3つ物語があるよ」以上のことをほぼ伝えていない。しかも原題は『KINDS OF KINDNESS』で「3章」に相当するような要素はない。そういう中で『憐れみの3章』ってタイトルにGOサインが出たのは、「この監督・役者なら、どんなタイトルでもお客さんは来るだろう」的な感覚があるからだと思う。

ちなみに「KINDS OF KINDNESS」は直訳すると「親切の種類」という意味になるそうだ。まあ、それはそれで意味が分からない。本作中で「親切」が描かれているかと言われると、なかなか悩ましい。むしろ「親切」からは遠い極にあるものがたくさん描かれている感じさえするだろう。そう考えると、邦題の「憐れみ」の方がしっくりくる感じはある。というかむしろ、前作の「哀れなるものたち」の方がタイトルとしてぴったりかもしれないが。

さて、前作『哀れなるものたち』では、エマ・ストーンは「改造人間」みたいな設定であり、だからあまり表情のことは意識されなかったのだけど、本作では割とずっと「エマ・ストーンって良い顔するなぁ」と思っていた。確かに「綺麗な顔」だと思うけど、そういうことではなくて、「良い顔だなぁ」という感覚である。伝わるかよく分からないが。

あと、唯一のアジア人(ホン・チャウという女優らしい)の人、どっかで観たことあるなと思ったら、映画『ザ・ホエール』の人だと思い出した。ただ、これは別に人種差別のつもりはない(ってかそもそも僕がアジア人だし)のだけど、本作の物語にはちょっと「アジア人」はあまりしっくり来なかった気がする。1つの物語の中にアジア人が出てくるのは変ではないのだけど、3つすべてにアジア人が出てくるのはちょっとしっくり来なかったというカンジダ。

彼女の演技が悪かったとかそういう意味では全然なくて、アジア人じゃなくても良かったんじゃないかな、という気がする。ただ最近は、多様性を意識しないと賞レースのノミネートにそもそも残らないみたいな話も聞いたことがあるし、そういう理由もあったりするのかなと思ったりはするのだけど。この辺りはなかなか難しい問題である。

まあそんなわけで、全然意味不明だったのだけど、面白かった。全然もう一回観れるぐらいの感じはあるし、「良い映画を観たなぁ」という感覚が残る作品だった。観て良かったなぁ、これは。

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長江貴士
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