【映画】「シモーヌ フランスに最も愛された政治家」感想・レビュー・解説

やはり世の中には凄い人がいるものだなと思う。「シモーヌ・ヴェイユ」という人物のことは、この映画を通じて初めて知ったけど、「人類の歴史に名を刻む人物の一人」だなと感じた。映画の副題に「フランスに最も愛された政治家」とあり、それがどの程度真実で、真実だとしたらどれぐらい愛されていたのか僕には知る由もない。映画では、あまりその辺りに触れられないからだ。この映画は、「シモーヌ・ヴェイユ」という女性政治家の、そのあまりに凄まじい人物の半生を、時系列をグチャグチャにして描き出す映画である。

ナチスの強制収容所から生き延びた女性が、フランスの法律・社会・歴史を次々と塗り替えていくのである。彼女は保健大臣として、中絶が違法とされていたフランスにおいて「中絶法」を成立させ、後に設立されたばかりの欧州議会(EUの主要機関の1つ)の女性初の議長に選出された。またパリ政治学院を卒業したばかりの若い頃には、子育てをしながら女性初の司法官に自らの意思でなり、フランスにおける受刑者の待遇改善に尽力した。その活躍は「女性である」という事実を抜きにしても凄まじいものであるし、「政治と司法への女性の参画は誤りだ」と面と向かって言われるような時代にあっては、より凄まじいことに感じられるだろう。

この映画では、そんなシモーヌが、晩年にそれまでの来歴を思い返しながら回顧録を書いている、という設定で展開され、彼女の人生における様々なターニングポイントが描かれていく。

シモーヌは4人兄弟で育ち、両親とともにニースで暮らしていた。「同化ユダヤ人」であった一家は、フランスへの愛国心を抱いており、特に両親から「世俗主義を重んじるように」と常に言われていた。そして、フランス共和国を信じており、国が私たちのことを見捨てるはずがないとも考えていた。
しかしその予想は儚くも裏切られる。戦争が始まり、彼女の一家はユダヤ人として強制収容所に送られてしまう。男女別で収容されたため、父・兄とは離れ離れになってしまい、また収容所に送られた時点で姉のドゥニーズはいなかった(事情ははっきりとは分からないが、映画の後半でなんとなく状況を示唆する場面がある)。シモーヌは、母イヴォンヌともう1人の姉ミルーと3人で、劣悪な収容所での生活を経験した。
その後、なんとか生きて収容所を出られたシモーヌだったが、かつての記憶が蘇ることもあり、ベッドでは寝られない身体になっていた。昔から本を読むことが好きだったシモーヌは、弁護士を目指しパリ政治学院に通っていたが、そこで後に夫となるアントワーヌと出会う。アントワーヌの一家もユダヤ人だった(が、映画で描かれている限りの情報から判断するに、「ユダヤ人であること」によって戦時中にシモーヌほどの苦労はしなかったと推察される)。アントワーヌの家で食事をしていた際、両親の口癖だった「世俗主義」という言葉を耳にして、シモーヌは思わず微笑む。
その後2人は結婚、シモーヌは大学を卒業したが、既にアントワーヌとの子供を育てており、弁護士になるという夢を一旦脇に置き、家庭に入った。しかしその後、アントワーヌが人民共和派で働くことが決まる。そしてこのことが、シモーヌが政治の世界と関わる1つのきっかけとなった。
その後、保健大臣となったシモーヌは、男性議員たちから口汚く罵られながらも、どうにか「ヴェイユ法(中絶法)」を成立させる。その後も、フランスに限らず世界にも目を向け、「弱き者」のために骨身を削って活動を続けていく……。
というような話です。

とこのように、この記事ではシモーヌの人生を時系列で紹介したが、映画はまったくそうなっていない。「メインとなる描写の流れの中に、過去の回想シーンが頻繁に差し込まれる」みたいな構成でさえない。とにかく、トランプをシャッフルするみたいにして時系列をグチャグチャにしている。

別にその構成が悪いと言っているわけではない。ただ、「外国人」には少し観にくいとは感じた。

冒頭で書いた通り、シモーヌ・ヴェイユという政治家はフランスで大人気であり、恐らく彼女の生涯についてはフランス国内でもかなり知られているのだと思う。だからこそ、「時系列にこだわらない」という構成でも、たぶんまったく問題はない。ただ、シモーヌ・ヴェイユという政治家にあまり詳しくない人が観る場合、やはりちょっと混乱するかもしれない。若い時と晩年とで女優が変わるので、「いつの時代の話なのか」という理解に混乱することはないが、あまりにも時間軸を行ったり来たりするので、一般的な映画よりは少しだけ集中力を要するかもしれない。

「シモーヌがかつて強制収容所に入れられていた」という事実は、映画の最初の方で情報としては提示される。しかし、姉のミルーも同様だったようだが、「かつて収容所に入れられていた」という事実を、なかなか周囲には伝えられない。ミルーはシモーヌとの手紙の中で「(付き合っている相手は)優しくしてくれるけど、昔のことは言えない」みたいなことを言っている。シモーヌは夫アントワーヌにその事実を話しているが、それも「言わざるを得なかった」というような伝え方だったんじゃないかという気がする(それを示唆する場面も描かれる)。

映画では「シモーヌによるナレーション」の音声も挿入される。恐らくだがこれは、シモーヌの回顧録の文章をそのまま使っているんじゃないかと思う(あくまでも僕の予想だが)。そしてそのナレーションの中に、こんなものがあった。

【生存者や目撃者は沈黙を強いられている。
「黙って生きろ」という雰囲気を感じる】

ドイツは当然だが、ドイツに限らず、ホロコーストに関わってしまったすべての人・組織・国はやはり、大っぴらに謝罪したり反省の弁を述べたりしたいとは思わないものだろう。彼女が若い頃のフランスも、そのような雰囲気が漂っていたのだそうだ。反省よりも忘却を選んだということだろう。そして結果的にはそのことが、「シモーヌ・ヴェイユ」という傑出した政治家を生んだとも言えるかもしれない。

彼女はある場面で、「無視されて、今も苦しい」と口にする。自分が経験した「おぞましい出来事」は、もちろん忘れられるなら忘れてしまいたい出来事だろう。しかし、それはできない。そして、そうであるならば「こんなことがあったんだ」と広く伝えたい、あるいは広く伝えられなくても、身近な人には気軽に話せる世の中であってほしいと願うものだろう。しかしそれもなかなか叶わない。彼女の中にはそういう、「鬱憤」「怒り」としか言いようがないものが積もりに積もっていたのだと思う。

彼女は、「時に生還したことが失敗に思える」と回想し、さらに、

【親衛隊と寝たから生還できたのかと、老婦人に尋ねられたことがあった】

とも言っている。「あの現実」を知らない者からの「無知ゆえの非難」みたいなものが、彼女には感じ取れてしまっていたのだろう。しかしだからと言って、何ができるわけでもない。

だからこそ、「女性初の司法官」に就任して以降、それが爆発していく。この映画では冒頭で、あっさりと「中絶法の成立」の場面を描くのだが、そこで見せたシモーヌの力強さの源泉が何なのかは、観客にはまだ知りようがない。しかし物語を追うに連れて、それが「強制収容所での凄まじい経験」に裏打ちされているのだということが理解できるような構成になっている。

映画の後半で、彼女が経験した「強制収容所の実態」がリアルに描かれる。この強制収容所のシーンは、大量のエキストラ(しかも、女性が裸にさせられたり髪を切られたり、あるいは極寒の中行軍させられたりする。行軍シーンの背景は合成かもしれないが)と大規模なセットで描かれており、メチャクチャ金が掛かってそうだなと思った。それまで描かれていた「政治家としての威勢の良さ」「権力を正しく振りかざして正義を貫く」という描写とあまりにも対照的であり、その凄まじさにも圧倒された。

ホロコーストについての映画なりノンフィクションなりは結構触れてきたし、その度に「クソみたいな世界だな」と感じるのだが、この映画の場合は、「シモーヌ・ヴェイユという偉大な政治家が経験した出来事であるという実名性」や「女性の経験であるという特異性」などがあり、これまで触れてきたホロコーストともまた少し違う受け取り方になったような感じがした。

シモーヌは自身の強制収容所での経験をカメラの前で話す機会があったのだが、それが実現した経緯も興味深い。シモーヌは恐らく、夫など身近な人間には自身の過去を伝えていたが、公には言っていなかったのだと思う。映画では時系列がグチャグチャになっているので、中絶法成立の時点で公になっていたのかどうかちょっと判断できなかったが、少なくとも女性初の司法官として働いていた頃にはそのことは口にしていなかったはずだ。

きっかけとなったのは、何かの記念式でシモーヌが礎石(建築工事の開始を記念して設置する石)の設置をするという場面。彼女は慣れた手付きでセメントコテを操り、セメントを広げていく。隣にいた軍人から「上手ですね」と聞かれた彼女は、「ええ、やってましたから、収容所で」と答えるのだ。この記念式の場にはマスコミもいたため、この告白が恐らく、「シモーヌ・ヴェイユが初めて公に強制収容所での経験を認めた出来事」となったのだろうと思う。そうして彼女は、自身の経験を口にすることになったのだ。

勝手な推測に過ぎないが、もし強制収容所での経験がなかったとしても、「不正義を許せない」というシモーヌの性格はなんとなく生来のものな気がするし(収容所での描かれ方から、なんとなくそう感じた)、やはり社会を変えるようなことに携わる人生を歩んでいたかもしれない。しかし、もし強制収容所での経験がなかったら、夫に「綺麗に着飾った主婦なんかになりたくない」と啖呵を切ってまで司法官を目指したり、欧州議会で「優先順位がある。終戦を優先にしてはならない」と熱弁をふるうこともなかったかもしれないとも感じる。だからと言って「シモーヌ・ヴェイユにとってホロコーストは良い経験だった」などと考えるはずもないのだが、「中絶法を成立させ、欧州議会議長となったシモーヌ・ヴェイユ」が存在しない世界は恐らく、今よりもずっと悪い世界だったと思うので、部外者としては「シモーヌ・ヴェイユが強制収容所を経験し、生き延びてくれたことは、結果として良かったのかもしれない」とも考えたくなる。難しいところだ。

今もきっと、世界のどこかで、シモーヌ・ヴェイユのような人が世界を変えるべく奮闘していることだろう。今日映画を観るまで「シモーヌ・ヴェイユ」という人物のことを知らなかったのだが、他にも山程彼女のような存在がいると考えるのが自然だろう。

世界の変革を個人の双肩に委ねてしまうのは勝手だとも感じるが、誰もがシモーヌ・ヴェイユのようには生きられない以上、やはり個人の頑張りに期待したくなってしまう部分もある。だから、いつも感じることではあるが、シモーヌ・ヴェイユのようには生きられない私たちは、せめて「積極的に知る」ということぐらいは頑張るべきなのだと思う。

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