【映画】「アザー・ミュージック」感想・レビュー・解説
長いこと書店で働いていたこともあって、書店員時代に考えていたことも含め、色んなことを考えさせられた。
大前提として僕は、サブスクや様々なものの電子化を決して否定してはいない。僕自身は好まないが、世の中がそのように動いていくのは必然だと思うし、逆らっても無駄だろうと感じている。好き嫌いで言うなら「嫌い」だが、良い悪いで聞かれたら「悪くはない」と答える、そんな感じだ。
ただ、僕がずっとモヤモヤしていることがある。それは、「人々の意識の変化」の方だ。サブスクや電子化は、外的な環境の変化である。そして当然だが、それらは人間の意識も変えていく。そして僕は、その意識の変化の方が気になる。
僕は、「基本的に映画館でしか映画を観ない」と決めている。アマゾンプライムやネットフリックスなどはそもそも契約していないし、今ではほとんど廃れているだろうがレンタルビデオなども借りない。
どうしてそういう風にしているのか。別に「映画館で映画を観る体験こそに価値がある」と主張したいのではない。別に、そういう話で言うなら、僕はパソコンで映画を観ても別にいい(スマホでは観たくないけど)。僕が映画館でしか観ないと決めている最大の理由は、「『制約』にこそ価値がある」と考えているからだ。
「映画館で映画を観る」というのは、様々な制約を受ける行為でもある。公開している期間には限りがあるから、その期間内に観なければならない。自分の身体を物理的に映画館まで運ばなければならないし、そのために自分の生活のスケジュールを調整しなければならない。観たいと思う映画が同時期に重なった場合には、どれを優先して観るかを検討しなければならないし、その調整のために複数の映画館の上映時間を調べなければならなくもなるだろう。
はっきり言ってめんどくさい。「制約」塗れだ。そしてそのような「制約」をクリアできなかった映画は、観るのを諦めることになる。概ね、そんなルールでずっと映画を観てきている。
それの一体何がいいのか? と感じるだろう。しかし僕は、逆に、「いつでもどこでも観れること」にどんな価値があるのか? と感じてしまう。それは確かに、「コスパ」や「タイパ」を評価基準に据えるなら、最高の選択肢と言えるだろう。しかし、「いつでもどこでも観れるもの」を「観る」と決断するためには、さらに何らかの要素が必要にならないだろうか? 例えば、「友人に勧められた」「ランキングで上位になっている」「レビューが物凄く高い」など、何らかの「情報」を必要とするはずだ。そして僕は、そんな風にして「映画を観るかどうか」を決めたくない。
あるいはサブスクの場合、無限にも思えるほど選択肢が存在する。その中から、「この映画を観る」と絞り込むためにもやはり、外的な情報を必要とする。僕には、そんな選択は、まっぴらごめんだ。結局それは、「自分で選んでいる」などとはとても言えない行為である。
僕は、「今映画館で公開している映画しか観ない」という風に、選択肢を一気に絞り込むことで、「ある有限の範囲内から自分で観たい映画を選ぶ」という選択が出来ている。これは、僕にはとても貴重な経験であるように感じられる。しかし、僕のこの感覚に賛同する人はそう多くないだろう。それはある意味で、「意識の変化」だと感じる。
書店も同じだ。アマゾンなどのオンラインで紙の本を買ったり、キンドルなどの電子書籍を読んだりする選択肢が存在する。しかしそれらも結局、「この本を読む」という選択のためには、何らかの外敵な情報を必要とする。一方、書店に足を運ぶというのは、「この書店にある本という有限の選択肢の中から読みたい本を選ぶ」という行為である。僕には、その方が価値があることだと感じられる。
音楽もそうだろう。僕は音楽を聞く習慣が基本的にないので実体験として語れることはないが、そう大きくは違わないはずだ。音楽の場合は、Spotifyのように「ランダムに音楽が流れてくる設定」にすることで、「偶然の出会い」を経験することが出来たりするだろう。その点は、映画や本にはない部分だと感じるし、サブスクで音楽を聞くことの良さの1つでもあるとは思う。実際、サブスクが広まったお陰で、昔の曲に再び注目が集まるようになった、という話を聞いたこともある。音楽の場合は、私のようなタイプの人間でも感じる「サブスクが広まったことによるプラス」も存在するだろう。
映画では、「フィジカルメディア」という表現が登場する。カセットやレコードなどの物理的な記録媒体のことだ。これらもまた、「制約」の1つと言っていい。電子的に流通するものには、原則として「品切れ」は存在しないが、「フィジカルメディア」には「手に入らない可能性」がつきまとう。壊れれば聴けないし、聞けば聞くほど物理的に消耗し劣化していく。
しかし、ここまで書いてきたように、結局のところそのような「制約」こそが、「それに触れたい」という原動力なのではないかと僕は昔から思っている。
僕がサブスクや電子化を好きになれないのは、そこに「制約」が存在しないからだ。もちろんそれらのサービスは、「制約を取り払う」という目的で発展していったはずだし、だからその目的を正しく果たしていると言っていい。しかし、そう遠くない未来に、「『制約』が存在しないこと」に対する違和感や不満みたいなものが、可視化されていくのではないかと僕は勝手に思っている。
それに近いからもしれない例を最近よく耳にする。最近アメリカで「BeReal」というSNSが流行っているという話を目にすることが多い。これは、「フィルター機能無し」「投稿は1日1回のみ」「自由なタイミングで投稿できず、アプリから通知が来てから2分以内に写真をアップしなければならない」という、「制約」に塗れたSNSだ。
背景にはどうも「SNS疲れ」「インスタ映え疲れ」があるという。加工を含め、自由度が高すぎるが故に、「映えない写真をアップするとイケてないと判断される」という感覚が生まれている。だからこそ、「映える写真をそもそも投稿できないSNS」が流行っているというわけだ。
まさにこれは「『制約』に価値を感じる」という感覚だと言っていいだろう。
僕はこのような感覚が、結構色んなところで出てくるのではないかと思っている。最近、様々なアーティストが新曲をレコードやカセットテープで発売する流れが出てきているはずだが、まさにそれも「制約」である。つまりこれから、「効率」と同時に「制約」も優先されるような社会になっていくのではないかとちょっとだけ思っているのだ。
そんな流れがいつやってくるか、それは分からないが、間違いなくそれまでの間に、レコードやカセットテープ、映画館、書店など、当たり前に「制約」をもたらしてくれる存在がどんどんと消えていくことだろう。そうなる前に多くの人が「制約」の価値を認識してくれるといいのだけど、なかなか難しそうだ。
「アザー・ミュージック」という伝説的なレコード店が閉店してしまったのも、結局はそうした流れの延長線にある。僕はこの映画を観るまでその存在さえ知らなかったが、NYのイーストヴィレッジにある、世界中にファンがいるレコード店が、2016年に閉店した。その最後の日々と、「アザー・ミュージック」がその21年間の歴史の中で音楽業界とNYに成した貢献を振り返るドキュメンタリー映画である。
映画では、多くの人が「アザー・ミュージック」の凄まじさについて語っている。
【NYを象徴する店】
【世界中探してもどこにもない】
【あの店で売られるならそのバンドは見込みがある】
【次元が違う】
【「アザー・ミュージック」に行くことは宗教的な体験に近い】
【空き地になっても来るよ(客)】
【(閉店が)辛すぎてセラピストがいる(客)】
【この店がなければ、今頃弁護士だった(店員)】
中でも一番ぐっと来たのは、
【はみ出し者たちが闘う店だった】
という言葉だ。働くスタッフは変人だらけ、音楽を聴いている量はハンパではなく、客の中には「ちょっと勉強してからでないと入りにくい」と語る者もいたほどの存在感。タワーレコードの真正面という凄まじい立地に狙って店を構え、曲によっては大手レコード店よりも遥かに多く販売するものもあったそうだ。「ニンジャチューン」(調べてみると、イギリスのインディペンデントレコードレーベルだそうだ)の、アメリカにおける売上の半分が「アザー・ミュージック」だと語る場面もあった。決して広いとは言えない店内(ちょっと狭めのコンビニぐらいじゃないだろうか)で、それだけ売るのはとんでもないだろう。ちなみに、歴代の販売数でトップなのは「ベル・アンド・セバスチャン」だそうだ。これも調べてみると、スコットランド出身のインディーズバンドらしい。そんなバンドの曲が、21年間の歴史の中で一番売れているというのだから、それも凄い話である。
共同経営者のクリスとジョシュは、
【人々の音楽の捉え方を変えたい】
【最高の音楽を最高のファンに届けたい】
と語っていた。そして、まさにそれを可能な限り実践し続けたのだ。スタッフは履歴書も見ずに採用するので、遅刻グセのある者ばかりだが、「僕らの感性とは違う新しい色を足せるかどうか」が唯一の採用基準だったそうだ。レコード店には少なかった女性店員も積極的に採用したことで、「アザー・ミュージック」は女性1人でも入りやすい雰囲気となった。無名でも地元のバンドを積極的に取り上げ、他のすべてのレーベルに断られたバンドの曲も置かれた。委託販売用の棚を設置したことで、自作CDを置いていくミュージシャンが増え、そこから有名になっていく者もいた。
アンダーグラウンドやカウンターカルチャーにとって、なくてはならない存在だったのだ。
そんな、世界中に知られる店でさえ、時代の流れに抗えなかった。驚いたことに、2003年には既に、経営者であるクリスとジョンの報酬は無かったという。家賃やスタッフの給料を支払ってそれで終わってしまったのだ。レコードは順調に売上を伸ばしていたが、CDの売上減を補うほどではなかった。また、2007年にはMP3のダウンロード販売を行うオンラインストアを開設したが、売上は振るわなかった。店に来る客には、目当てのものが品切れだった場合、「タワーレコードにはあるかもしれない」と言うそうだが、客は「大型店では買いたくない」と言うそうだ。しかしオンラインストアの場合、「iTunesはクールだった」そうで、「アザー・ミュージック」が入り込む余地はなかったのである。
それでもクリスは、「ここが閉まったら、スタッフはどうなる?」と心配し、営業を続けていた。普通の社会では働けないだろう変人揃いだったこともあり、決断に躊躇したのだ。そんな様子を見ていたクリスの妻は、「じゃあ、あなたはどうなるの?」と聞いたそうだ。クリスは常に、自分のことを後回しにしていたと妻は語っていた。
「アザー・ミュージック」と比較するのかおこがましいが、書店員時代僕も、「世の中に広くは知られていないが、自分が良いと感じたもの」をなるべく店頭で発信するように心がけていた。そしてこの映画を観て改めて、「カルチャーには、『アザー・ミュージック』のような発信基地が必要だ」と感じさせられた。どんなカルチャーも、最終的には「私はそれが好きだ」というところに帰着すればいいのだが、そこに辿り着くまでにはやはり、何らかの導きみたいなものがあってもいい。人間の個性によってしか成立しないレコメンドは、まさにその最たるものだと思うし、「アザー・ミュージック」はまさにその究極だったと言っていいだろう。
僕たちは、「便利さ」を引き換えに「制約」を失っている。「『制約』なんか無くなればいい」と今は多くの人が感じるだろうが、「便利さ」が究極にまで行き着いてしまえばきっと、「制約」を求める反動がやってくるだろう。
しかしその時にはもう、「制約」は世の中から消え去っているはずだ。そんな未来が、僕には怖いものに感じられる。改めてそんなことを考えさせられる映画だった。