【映画】「僕はイエス様が嫌い」感想・レビュー・解説
宗教(一神教)と妖怪は似ていると思う。
民俗学に詳しいわけではないので的外れかもしれないが、「妖怪」というのは基本的に、「当時の知識では説明できない出来事に理屈を付けるため」に生み出されたはずだ。例えば「木霊」という妖怪。樹木に宿るとされる精霊だそうだが、「やまびこ(山で大きな声を出すと反射して聞こえる現象)」は、この「木霊」が起こしている現象だとされている。現在の知識では「やまびこ」はまた違う説明がなされるはずだが、当時は理屈が分かっていなかったため、「木霊という妖怪の仕業」ということにしていたのである。
もちろん、すべての「妖怪」がそのように説明されるわけではないと思うが、それは僕の理解では、「『妖怪』という存在が世間に広まったことで、理屈関係なく『妖怪』を作り出そうという動きが生まれたから」だと思っている。「原初の妖怪」はたぶん、「理解不能な現象に理屈を付けるため」に生み出されたはずだ。
さて、僕の理解では、一神教もそれに近いものがあると思っている。例えば昔は、「地上」と「天上(宇宙)」は異なる理屈によって支配されていると考えられており、「天上」を統べているのは「神」だとされていた。「太陽が上ること」や「星の運行」はすべて「神が行っている」と考えられていたのである。これもまた、「理解不能な現象に理屈を付けるため」という背景があると考えられるだろう。
さてしかし、一神教と妖怪では大きく違う点がある。それは「人間が介入出来るかどうか」である。
これも僕の勝手な理解だが、「妖怪」の場合は、「妖怪がやってるからしょうがいないよねー」という風に扱うために作られたように思う。「理解不能な現象」に対して何か思い悩んでしまうのではなく、「理解不能な現象」について意識を向けないように名前を付けておくみたいな感じがする。
しかし一神教は違う。何故僕がそう感じるかと言えば、「お祈り」という行為が存在するからだ。
宗教についても別に詳しくないので僕の勝手な解釈でしかないが、「お祈り」というのはやはり、「何かを願う行為」に感じられる。もちろんそうではない場合もあるだろう。ネットでざっくり調べると、「祈りとは『神との対話』であり、内的な変化を期待するもの」という説明もあった。それももちろん理解できる。ただ、「お祈り」にそのような機能が存在するとして、それはやはりきちんと学ばないと血肉化して理解することは難しいだろう。だからやはり、「お祈り」と聞くと「願い事をする」という発想になってしまう気がする。
本作『僕はイエス様が嫌い』の中にも、「お祈り、意味なかったですね」というセリフが出てくる。どういう経緯でこの言葉が出てくるのかには触れないが、これは「願い事は届かなかったですね」という意味で使われている。この言葉を発する者もやはり、「お祈り=願い事」と考えているというわけだ。
さて、これも僕の勝手な解釈だが、一神教の場合は、「すべてを司る存在」としての「神」が登場するからこそ、「願いが届けば叶えてもらえる」という発想になりがちなのではないかと思う。そして僕には、この発想が良いものにはちょっと思えない。
例えば、キリスト教についても特に詳しくないわけだが、なんとなく、「神は乗り越えられない試練を与えない」みたいな発想があったような記憶がある。そして僕にはこれは、「『祈りが届かない』という状況を納得させるための言説」にしか聞こえない。「祈りが届かない」のではなく、「届いているかもしれないが、神の判断で、必要な試練が与えられた」みたいな解釈をしているように思えるのだ。
それが僕には、なんかしっくりこない気がしてしまう。
もちろん日本でも、例えば浄土宗は「『南無阿弥陀仏』と唱えるだけで救われる」みたいに言っていて、これも発想としては「唱えることで願いが聞き入れられる」的なものに近い気がする。決して一神教に限る話ではないと思うが、そういうこともあり僕は、「宗教」というものが全般的にどうも好きになれない。
もちろん、一応書いておくが、「宗教を信じている人」を貶めたりするつもりはまったくない。犯罪行為は倫理的にマズいことをしていない集団であれば、何を信じようが自由だ。「宗教」の存在によって救われている人がいるのも事実だろう。ただ僕は、誰かに何か宗教に誘われても、まったく信じる気がないというだけである。
さて、「宗教」の話になると毎回思い出す話がある。昔、何かの心理学の本で読んだエピソードだ。
どこかの国である主婦が突然、「私は神のお告げが聞こえた!」と主張し、宗教団体を立ち上げた。何故か信者が増えていったその団体に、研究のためにある心理学者が潜入したという。その宗教団体は「終末思想」を掲げており、「◯年◯月◯日に世界が滅びる」みたいな予言をしていたそうだ。その日付は遠い未来のものではなく、割と近い日付であり、だからその宗教団体の面々は、その予言された日を迎えることになった。
当然、世界が滅びたりはしていない。つまり、元主婦の教祖の予言は外れたことになる。さて、その後信者たちはどうなったのか。なんと、より一層その宗教を信じるようになったのだそうだ。何故か。それは、「私たちの祈りが届いたお陰で、終末が回避された」と考えるようになったからだそうだ。僕は「宗教」とか「祈り」とかについて考える際、このエピソードのことを毎回思い出す。
人間は、物事に意味を見出すのが得意だ。スポーツ選手なども、「赤いパンツを履いた日に勝っている」という理由で、ずっと赤いパンツを履いたりするみたいな人がいるだろう。「ゲン担ぎ」とか「ジンクス」みたいに言われるが、正直なところ、そこに因果関係などないはずだ。それをやっている本人も、大体の場合、因果関係がないことなど分かっているだろう。それでも、そうしたくなってしまう。そういう性質が、人間には元々備わっているのだろう。
だから「祈ること」と「未来の変化」を結びつけて考えてしまいたくなるというわけだ。難しいものだと思う。
なんかそんなことをあれこれ考えさせられる映画だった。
内容に入ろうと思います。
物語は、主人公・星野由来の一家が父親の実家へと引っ越す場面から始まる。状況ははっきりしないが、何か事情があって実家に身を寄せざるを得なかったそうだ。当然、由来は転校することになった。そしてその転校先の小学校が、キリスト教系だったのだ。授業の一環として礼拝が存在し、日曜日には市民にも開放される立派な礼拝堂がある。
ある日彼は、一人で礼拝堂に忍び込んだ際、目の前に小さなイエス様が現れて驚かされた。その後もその小さなイエス様は、おじいちゃんが使っていたレコードの上やお風呂のアヒルの上など様々な場所に現れるようになった。もちろん、由来にしか見えていないのだが、彼はその小さなイエス様にお願い事をすると叶うようだと気づくようになっていく。
一方、家族から「友達が出来たのか」と心配される由来は、和馬という友達が出来た。お互いの家を行き来したり、和馬が持っている別荘に連れて行ってもらうなど、家族ぐるみでの関係になっていく。しかしそんなある日、思いもよらない出来事が起こり……。
さて、物語としては非常に小粒なのだけど、なんだかんだで観させられてしまう物語だった。メチャクチャ面白いというわけではないが、じんわり来る。主人公のセリフが少ないことで、「彼が一体何を考えているのか」という想像する余白が生まれ、恐らく内面であれこれと渦巻いているだろう心情を観る人がそれぞれに受け取ることが可能になる。そして。映画を観終えて公式HPをチェックするまで知らなかったが、これを撮影した当時、監督は青山学院大学に在学中の学生だったそうだ。それはちょっと凄いな。「普通に」という言い方はおかしいかもしれないが、普通に商業映画としてのクオリティが保たれていると感じた。凄い人はやはり凄いんだなぁ。
さて、「宗教」が好きになれない理由について冒頭でウダウダ書いたが、他にもある。それは結局のところ、「内心に踏み込んでくるから」である。
本作には、「由来の担任教師」や「和馬の母親」など、キリスト教を熱心に信奉している人が出てくる。そして彼らは、「お祈りを捧げる”べき”」というスタンスで話をしてくるのだ。もちろん、担任教師は「キリスト教系の学校の教師」として、そして母親は「自分の息子に対してだけ」そういう発言をするので、まあ許容範囲内と言えばその通りだろう。しかし僕は、そのような言動も好きになれない。相手がどういう立場にあろうと、「他人の内心に足を踏み入れるような行為をする人」は好きになれない。というか、はっきり言って嫌いだ。
由来が通う小学校が公立なのか私立なのかよくわからないが、いずれにせよ、東京から引っ越してきた由来には「近くにある小学校」はそこだけであり、他に選択肢などない。他の子どもも同様だろう。あるいは、仮に選択肢があったとしても、親が「キリスト教系の学校に入れたい」と思えばそうなる。つまり、この小学校に通っている子どもには、「キリスト教系の学校に通いたいと望んでいた子」はいないはずなのだ。
そして僕は基本的に、そのような状態で「内心を矯正・強制するような行為」はすべきではないと考えている。
でも、キリスト教はそういうことするんだよなぁ。
以前観た映画『沈黙』は、遠藤周作の原作を映画化したハリウッド映画だが、この中のあるシーンも非常に印象的で、宗教について考える時には毎回思い出される。当時の日本の権力者(たぶん織田信長)とキリスト教の宣教師が会話をする場面で、権力者は、「君たちの宗教を否定するつもりはないが、今の日本には向かない」みたいなことを言う。それに対して宣教師が、「キリスト教は真理にたどり着いた。真理とは、どの時代・どの場所でも正しいということだ。もしも、日本でそれが正しくないというのであれば、それは真理ではない」みたいなことを言うのだ。
僕はこのセリフに唖然としてしまった。キリスト教、マジでやべぇなと思ったのである。
もちろんこれは、映画が描かれた時代(戦国時代か?)の話であり、現代のキリスト教が同じ考えを持っているのかは知らない。でも、なんとなくのイメージでは、「そういうこと考えていそうだなぁ」という気がする。そしてそうだとしたら、メチャクチャ嫌だなぁと思う。
そんなわけで、「僕はキリスト教が嫌い」なのである。まあ、キリスト教に限らないのだが。
映画の最後に、「この映画を若くして亡くなった友に捧ぐ」という字幕が表記された。そこに監督のどのような想いが起こっているのか、正直はっきりとは分からないのだが、本作全体の内容を踏まえれば、やはり監督自身も「お祈り、意味なかったですね」みたいなことを感じたのかもしれない。もしもそうだとすれば、監督自身の実感が籠もった作品と言えるのだろうと思う。
個人的には、由来が先生からある頼まれ事をされた際に「大丈夫です」と答えていたのが印象的だった。この時点で間違いなく、由来は「お祈り」の無力さを悟っていたはずだが、しかし「お祈り」も頼まれながら断らなかったのだ。ここにはある種の「諦念」があったように僕には感じられた。つまり、「この先生と自分は別の世界を生きていて、わかり合えない」みたいな感覚だったんじゃないかと思うのだ。そして僕の想像が正しければ、「まあそうだよな」と思う。
まあそんなわけで、キリスト教のことをボロクソ書いたが、キリスト教についてはこんなエピソードも思い出される。何の本で読んだか忘れたが、ある人物が子どもの頃に授業に神父がやってきた時の話を書いていた。その人物は理路整然と聖書の矛盾などを指摘したため、神父は「聖書なんかより君の方が正しい」と言ったそうだが、さらに続けて、「この本(聖書)に救いを求めないと生きていけない人がたくさんいることも知ってほしい」と言ったというのだ。だから僕は、全然キリスト教を否定するつもりはない。「嫌い」だが「悪い」と思っているわけではないというわけだ。
映画の話にはほとんど触れなかった気がするが、まあそんな感じである。
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