【映画】「ミッドナイト・トラベラー」感想・レビュー・解説
映画の核となる部分とはまったく関係ない場面なのだが、非常に印象的に残ったシーンから書いていこうと思う。
【映画監督は天職だ】
と、この映画の監督は語る。彼は、タリバンの指導者を題材に映画を撮りタリバンから死刑判決を受け、アフガニスタンからヨーロッパへと陸路で向かっている途中であり、その旅路を3台のスマホで撮影したのがこの映画だ。
【映画を愛している。
しかし、時に映画は酷なものだ】
セルビアの難民キャンプで、ハンガリーの難民申請を待っている彼らは、ある日妹のザフラの姿が見えなくなる。
妻が妹の姿を最後に見たのは1時間前、その頃ドイツでは少女のレイプ事件が起こっていた。最悪の想像が頭を過る。
しかしその一方で彼は、ほんの一瞬だがこうも考えてしまったそうだ。
【絶好のシャッターチャンスだ。スマホを持って娘を探しに行こう。素晴らしいシーンになるだろう。
スマホを持って森に入る。娘の身体を見つける。そしてちょうどそこへ妻がやってくる。】
彼は映画監督として、そんな風に考えてしまう。そして、
【猛烈な自己嫌悪に襲われた】
と語る。
この場面は、夜空に浮かぶ月をバックに、ナレーションだけで展開される。つまり彼は捜索中、実際にはスマホを持っていなかった。
当然と言えば当然の判断だ。しかし、この映画の監督が、まさにそのような人物だからこそ、この映画が成立したのだとも言えるだろう。どんな信念があるにせよ、外形的には、彼がタリバンの指導者の映画を撮ったことで、祖国アフガニスタンを追われる生活を余儀なくされているのだ。そして原因を作ったまさにその張本人が、自分たち家族に窮状をスマホで撮影し続ける。
なかなかの胆力だろう。
彼がどんな意図を持ってこの映画を撮影したのかによって、この映画の受け取り方は変わってくる、と感じている。
映画の中には、監督であるハッサンを始め、4人家族の楽しそうな笑顔がたくさん収められている。
もちろん時々、
【こんな生活、もううんざり(妻)】
【退屈(と言って号泣する)(姉)】
【もうこんなのヤダ(妹)】
という風に感情を爆発させるのだが、基本的には、非常に苦しいだろう難民生活を「楽しく過ごしている」姿が描かれていく。
問題は、この「笑顔」が、彼らの日常だったのか、あるいは非日常だったのか、だ。
映画は、いくらでも編集できる。彼らの難民生活は3年にも及んでいる(まだ終わっていないという)。3年の月日があれば、「笑顔」を見せる時間がごく僅かだったとしても、この映画を成立させるだけの「笑顔」を撮ることは可能だろう。
だから、「笑顔で溢れる一家」が映し出されているからと言って、それが「彼らの日常」だという確証はない。
映画を観れば明らかだと思うが、この映画を監督は、「難民の実態を世に問う」みたいな目的意識では撮っていない。むしろ、「家族の記念を残そう」という、アルバムでも作ろうかというようなスタンスで撮っていると思う。
そして僕は、そういうスタンスで撮られた映画だからこそ、この映画は「類まれな力強さ」を持つと感じた。
そして、もし「家族のアルバム」を作っているつもりなのだとしたら、そりゃあ「笑顔の
場面」をせっせと選ぶだろう。だから上述のように、「笑顔が非日常である可能性」についても考えたというわけだ。
この映画では、姉のナルギスがところどころでナレーションを担当しているのだが、その中でこんな発言をしていた。
【私は忘れる。
こんな旅路を思い出すのは、絶対にイヤ】
彼らは、僕らが想像もできないような過酷な現実を生きている。4人にとって、「そういう現実を過ごしてきた」という過去は決して消えることはない。
しかし映画監督である父親は、彼ら過ごしてきた過酷な現実の「印象」を塗り替えることができる。現実の映像を使い、楽しかった記憶をメインに、自分たちの逃避行を再構築することが可能なのだ。
そういう意味で僕は、この映画は、父親が「家族の過去を塗り替えるために制作した映画」だと思っている。そして、「そんな強い個人的な動機によって”捻じ曲げられた現実”が映し出されている」からこそ、この映画は「類まれな力強さ」を有しているのだと思う。
”捻じ曲げられた現実”というのは、悪い意味では決してない。これは、この映画を観る上でのある種の警告と言っていいだろう。つまり、「この映画で描かれていること”だけ”が現実なわけではない」ということだ。
彼らのように明るく過ごせる人ばかりではない。彼らは難民キャンプに辿り着けたが、それが叶わない人もいるだろう。不法入国の際に危険を犯し命を落とす者もいるはずだ。
この映画では、そのような「難民が直面するだろう絶望的な現実」はさほど映し出されない。それは、幸運にも彼らの身に起こらなかっただけなのか、あるいは起こったが映画に組み込まなかったのか、それは分からない。
ただとにかく映画を観る上では、「この映画は、難民の現実のほんの一例に過ぎない」ということを明確に意識しておかなければならない。そういう意味を込めて、”捻じ曲げられた現実”という表現を使った。
映画は全体的に明るいトーンで展開していく。これは、映画を勧める側としては非常に良い点だ。ただでさえ「ドキュメンタリー映画」を観る人は多くないと思う(僕の周りで、ドキュメンタリー映画を好んで観ている人はほぼいない)。さらに「悲惨で辛い現実」が描かれていると、余計に敬遠されてしまう。
この映画は、「難民」という非情な現実が恐ろしいリアリティで描かれているにも関わらず、「家族アルバム」を志向しているが故に作品から悲惨さが過剰ににじみ出ることがない。
それどころか、2人の娘の可愛さに癒やされさえするだろう。妹のザフラはまだ幼く、自分たちが置かれた状況を正確に認識できていない可能性はあるが、姉は恐らく「難民」という境遇を理解している。そしてその上で、そんな環境など屁の河童であるかのように軽やかに振る舞ってみせる。たぶんマイケル・ジャクソンの歌だと思うが、スマホから流れる音楽に合わせて踊る場面など、思わず笑ってしまうようなおかしさがある。
妻(映画の中で名前が出た場面があったか記憶にないのだけど、HPでは「ファティマ」とある)もなんだか面白い。ある日、難民キャンプの隣人である若い女性がコンロを借りに来た時に、ハッサンが「見る度に可愛くなるね」と声を掛ける。すると、その若い女性が帰った後で妻は、「あんな風に言うのは止めて」と文句を言うのだ。
最初は、「そんな安易な褒め言葉を口にするなんてはしたない」と窘めているのかと思ったのだが、どうやら妻の嫉妬のようだ。そこから夫婦喧嘩のような展開になる。
実は同じく映画監督である妻に対してハッサンは、「映画の中でキスするのはいいのか?」などと問いかける。そしてそんなやり取りがなんどかあった後で、妻はその状況におかしくなったのか笑い転げていくのだ。
みたいなシーンが普通にある。「難民」を描き出すドキュメンタリー映画とは思えない場面である。
もちろん、厳しい現実も描かれる。粗悪な密航業者に騙されたり、ブルガリアで移民排斥運動を目の当たりにしたりもする。それらは、僕らが頭の中でイメージする「難民の現実」であり、それが間違っているわけではないのだが、ハッサンはこの映画で”現実を捻じ曲げ”、僕たちの頭の中の「難民のイメージ」を反転させてみせた、と言っていいだろう。
僕たちにとって、「難民」というのは遠い現実だ(難民認定率が恐ろしく低い日本の現状は大きな問題ではあるが)。だから、ニュースなどでしか「難民」の実際を知ることがないし、ニュースでは「悲惨な現実」しか切り取られないから、「悲惨な現実」以外のイメージを持ちようがない。
しかし難民にしたって、「難民という日常」を生きているのであり、その日常すべてが悲惨さで埋め尽くされているわけではない。
だからホッとした、などという感想を抱いたわけでは決してないのだが、一面からしか見ることができない社会問題に対して、別の方向から光を当ててもらえるこの映画は、現実の捉え方を再考させる力を持つのではないかと感じた。
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