【映画】「ナミビアの砂漠」感想・レビュー・解説
本作を観たのは完全に、河合優実が主演だからだ。それ以外の理由はない。
しかし観ながら、「もし河合優実がいなかったら、誰を主演にしたんだろう?」と考えさせられた。それぐらい、河合優実がズバッとハマっている感じがある。
さらに、「もし河合優実がいなかったら」にも、本作に関係する話がある。というのも、河合優実が役者を目指すきっかけになったのが、本作監督である山中瑶子が初監督した映画『あみこ』を観たことがきっかけだからだ。『あみこ』を観た河合優実は衝撃を受け、山中瑶子に「いつか出演したいです」と書いた手紙を渡したそうなのだ。
つまり、山中瑶子がいなければ女優・河合優実は存在しなかったかもしれないのである。本作に対して「もし河合優実がいなかったら」という表現を使うのは、そういう意味でも適切だと言っていいだろう。
河合優実の何が凄いのか、僕には上手く言語化出来ないが、映画冒頭を観ながら考えていたことがある。
冒頭、河合優実演じるカナは、新谷ゆづみ演じる友人・イチカと喫茶店で喋るシーンから始まる。そしてそのシーンを観ながら、「もしも新谷ゆづみがカナを演じていたらどうだろうか」と考えてしまった。
たぶんそれはあまりしっくり来ない。というのも、新谷ゆづみは見た目の可愛さがパキッとしているので、「容姿が発する情報が多い」という印象になってしまう。それはつまり、「それ以外の情報を配置しにくい」という意味でもある。もしも新谷ゆづみがカナを演じていたら、「カナが作中で繰り出す様々な奇行」に対して、「何らかの意味」が付随してしまうように思う。そしてそれは、本作の雰囲気にとってはあまり良くないだろう。
一方、河合優実は、どう表現すればいいのか難しいが、「絶妙な可愛さ」を有しているという感じがする。これはつまり「可愛すぎない」という意味だ。だから「容姿が発する情報」が少なくなる。だから、河合優実演じるカナの振る舞いに対しては様々な意味付けが可能になるし、それは、観客の焦点を常に反らし続けているように感じられる本作の雰囲気に、とても合っている感じがしたのだ。
そして、似たような感覚を抱かせる女優のことも、映画を観ながら思い浮かべていた。岸井ゆきのだ。彼女も「絶妙な可愛さ」という感じで、岸井ゆきのと河合優実には同じような雰囲気を感じる。だから、年齢さえ合えば、岸井ゆきのも本作の雰囲気にハマる気がする。でも、他に誰がいるだろう? 僕にはちょっと、パッとは思いつかない。
そんな河合優実が演じたカナは、実に捉えがたい存在だ。ただ同時に、誰もが「こんな風でありたい」と感じてしまうんじゃないかと思うような、「むきだしの生」みたいなものを感じさせられた。
「社会の中で生きていく」というのは概ね、「『自分らしさ』みたいなものを押し殺して良き場所にハマるピースとして存在する」みたいなところがある。本作でも、カナは職場である脱毛サロンでそんな雰囲気を醸し出していた。自分は今「一個の人間」ではなく「社会の中に配された部材」であるみたいな感じ。そしてそれはきっと、僕を含めたごく一般的な人が内心のどこかに抱えている感覚ではないかと思う。
でもカナは、職場を一歩離れれば、「部材」であったことなどするっと忘れてしまう。親友や恋人や浮気相手の存在も全部フラットになって、「カナ」という存在だけが存在しているような感覚。カナの存在はアメーバみたいに不定形となって、何かに囚われたりしないで自由に伸び縮みする。「社会性」みたいなものを全部投げ出したまま社会の中で屹立している感じがあって、たぶんそんな彼女の雰囲気には、ある種の憧憬を抱かされてしまうみたいな人も結構いるような気がする。
「自由だなぁ」って。
でも、カナが自由なのかは、よく分からない。「自由」というのは、「『やりたいこと』や『目指す地点』が存在し、それに向かう際に抵抗が存在しない」みたいなイメージがあるが、そもそもカナには「やりたいこと」も「目指す地点」も存在しないように思える。「やりたいこと」も「目指す地点」も無いのに「自由」とはどういうことだろう? 「そういうもの一切を持たないこと」が「自由」なのだろうか? いずれにせよ、僕にはカナは、特に「自由」には見えなかった。「日本はこれから、少子化と貧困で終わるので、当面の目標は『生存』です」っていうセリフも、彼女のそんな雰囲気を重ね塗りしていく感じがある。
ただ、「自由」の話なのかどうかは分からないが、ある場面でカナが口にする、「思ってることとやってることが違う人が怖い」って話は、なんとなくカナの本質を衝くような話に感じられた。
カナは、思ったことを口にするし、したいと思ったことをする。カナにとっては、それが自然なことで、それ以外のやり方があるようには思えない。でも、どうやら世の中は違う。思っていても言わないし、したいと思ってもやらない。世間的にはそれが当たり前みたいだけど、そんなのなんか怖い。意味が分からない。
カナはたぶん、そんな風に考えている。
『ナミビアの砂漠』というタイトルにどんな意味が込められているのかちゃんとは分からないが、作中ではっきり提示されるものとしては、カナがよく観ている動画がある。恐らく「ナミビアの砂漠」なのだろう場所を映したYouTubeのチャンネルか何かで、牛が水を飲んでいたりする。彼女がどうしてそんな動画を観ているのかは分からないが、僕の解釈では「『ナミビアの砂漠』の動画を観ることには意味がない」のではないかと思う。そうではなく、「『違和感だらけの社会』を見ずに済むためには何か別のものを眺める必要があり、それがたまたま『ナミビアの砂漠』の動画だった」ということなんじゃないかと思う。分からないけど。
カナはある場面で、「映画なんか観てどーなんだよー」と口にするのだが(それを「映画」の中で言わせるのもなかなか面白い)、たぶんカナは「人間」のことが上手く理解できないんだと思う。それが象徴的に描かれるのが、冒頭のシーンだろう。親友(だと思う)のイチカが、「かつての同級生が自殺した」「その子から死ぬ前日に久々に突然電話があって話をした」みたいな話をしているのだが、カナは自分の後ろの席で「ノーパンしゃぶしゃぶ」について話している男3人の会話に気を取られているのだ。全然聞いてない。たぶん、まったく興味がないんだと思う。それは、「イチカの話」にではなく「イチカ」に。
他の場面でも、カナが他人に何らかの関心を向けているシーンがほとんどなかった気がする。付き合っている相手に対しても、たぶん同じだと思う。好きな理由もないし、嫌いな理由もない。
そういうカナの雰囲気から、「『人間』のことが上手く理解できないんだろう」みたいに感じさせられた。そして恐らくその理由が、「思ってることとやってることが違う人が怖い」という部分にあるんだろうな、と。
ただ、一方でカナは、周りにいる人から好かれる。「好かれる」と書くとちょっとズレるかもしれないが、「必要な存在だと認識される」と書くともう少し正確になるだろうか。たぶんだけど、それはきっと「むきだしの生」に惹かれているんだと思う。社会に生きるほとんどの人が、本質的な部分を上手く覆い隠して、つまり、「『むきだしの生』を隠す」ようにして生きている。だから、カナのような人間は稀有だし、人を惹きつける。自分には真似できない生き方に惹かれるから、関わりたくなる。特に、カナと付き合うハヤシとホンダはより強くそのような感覚を抱いているわけだが、そうではない人たちも、何らかの形でカナの引力に引きつけられている。
カナは、社会から浮いているのだが、浮いているからこそ周りの人を惹きつけ、それ故に社会に留まることが出来ている。そんな矛盾めいた生き方にきっと、観客も惹きつけられるのだと思う。
そんなわけでとにかく、カナの存在感、つまり河合優実の存在感が凄まじかったし、ほぼそれだけで作品が成立しているような感じがあった。だから、河合優実じゃなかったら誰がこの物語を成立させるんだって感じがするし、だから山中瑶子と河合優実がずっと前に出会っていたというのは、なんか凄いことのように思える。
「カナには居場所があるのか?」と考えるが、やはりそれは自己矛盾みたいなところがあるだろう。というのもカナの場合、「社会から浮いていること」がある種のアイデンティティみたいになっているわけで、だから、「落ち着けるような居場所」があったら、それはカナの存在を根幹から揺るがすような感じもする。
ただ、「カナはカナのままでありたいのか?」という点は考える必要があるだろう。もしもカナが、「今の自分」を捨てたいと感じているのであれば、「社会から浮いていること」というアイデンティティにこだわる必要はなくなる。いや、カナは別にその点にこだわっているわけではないだろうが、恐らく社会にうまくハマれたことなどなかったはずで、結果としてこだわっているように見えるというわけだ。で、「そんな自分を捨てたい」と考えているのなら、いずれ居場所も見つかるだろう。
でも、そんなカナは想像出来ない。自分を愛してくれる人に対してもいじわるで暴力的にしか振る舞えないカナのことを、なんだかんだみんな好きになっていくわけで、「そうじゃないカナ」が存在する気がしない。そう思わせるぐらい、カナの存在感はとてつもなかったし、そんな存在感を見事に発揮した河合優実の演技には圧倒された。
ストーリーと言えるようなものは、ほぼ無い。主に、ハヤシとホンダという2人の男を巡ってあーだこーだしているわけだが、しかし、そのあーだこーだそのものにはさほど意味はないだろう。「カナの行動には意味がない」ということを浮き彫りにするために様々な状況が存在すると言えるわけで、観れば観るほど「空虚の穴」が広がっていくみたいな感じがした。137分の映画だそうだが、その間ずっと「空虚」を描き続けているわけで、凄い映画だなと思う。
あと、観ていてびっくりしたのは、唐田えりかが出てきたこと。久しぶりに見たなと思う。
まあとにかく、「河合優実が凄かった」という感想に終始する映画である。デビューからまださほど経っていないはずなのに、本当に快進撃だなと思う。「アイドル的人気」みたいな形で売れたケース以外では、このスピードは超絶異例じゃないかと思う。凄い人がいたもんだ。