【映画】「マイ・ニューヨーク・ダイアリー」感想・レビュー・解説

僕は別に、やりたいことがあるわけでも、成し遂げたいことがあるわけでもない。昔からずっと「ダルいな」と思いながら毎日を過ごしているし、正直、「さっさと人生終わってくれてもいいんだけどなー」みたいに思っている。

ただ、なんだかんだ世の中の片隅にへばりつくように生きてはいるし、まあしょうがねぇなんとかやっていくしかないか、みたいに考えている。

そんな僕が、「どのみち生きてるんだしなぁ」という思いと共に捨てきれない感覚がある。それは、「せっかくなら、『誰かのためになる存在』でいたいなぁ」というものだ。

しかし、なかなかそれは難しい。

この映画では、「世界中から届く『サリンジャー宛のファンレター』に、『著者はファンレターを読みません』と定型文で返信する」という仕事を任されることになる女性が主人公として描かれる。この映画は、ジョアンナ・ラコフという作家の実体験を綴ったエッセイを基にした映画で、実際にジョアンナという名前で登場する主人公が行っているこの「サリンジャーのファンレターの返信」という仕事は、実際に行われていたものだ。

ただ、「実際にこういう仕事が存在した」ということ以上に、この「ファンレターへの返信」という仕事は、「世の中に存在する『クソ仕事(ブルシット・ジョブ)』」を暗喩しているようにも感じた。

ジョアンナは、「ファンレターへの返信」についてこんな風に指示される。

◯返信は、あらかじめ用意された返答リストの中から選ぶこと(それ以外の文章を書かないこと)
◯字間や空白なども、指定された通りに狂いなくタイプすること(手紙への返信はタイプライターだった)
◯ファンレターは”念のため”すべて目を通すこと

最後の”念のため”は、ジョン・レノンが殺害された「チャップマン事件」が背景にある。逮捕されたチャップマンは、警察が現場に到着するまでサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいた。彼がファンレターを出していたかどうかは分からないが、この事件を機に、「何があるか分からないから」と、ファンレターには必ず目を通すことになったという。

さて、どうだろうか?なかなかの「クソ仕事」ではないだろうか。ジョアンナには、選択の余地がほぼ存在しない。返信の文章は、単なるファンレターだけではなく、講演やチャリティの依頼の手紙など、ありとあらゆる状況に対応できるように選択肢が用意されている。ジョアンナはファンレターを読み、どの定型文を使うべきかを考え、それをひたすらタイプするだけだ。とにかく、徹底して「それだけをやるように」と厳命される。

もちろん、この仕事は「サリンジャーを守ること」の役には立っている。彼は1963年以降ファンレターへの返信を止め、それからはジョアンナが働くエージェントが代理で返信しているのだが、サリンジャーの担当であるマーガレットは、【ジュリーは称賛を聞きたくない】と言い切っている(ちなみにこの映画では、サリンジャーは「ジュリー」と呼ばれている)。

それがサリンジャーの希望に沿うものであるのなら、ジョアンナの仕事は意味がある。しかし、「サリンジャーにとっては意味がある」という感覚で、ジョアンナは割り切れない。そもそも、非常に面白い設定だが(恐らく実際にそうだったのだろうが)、ジョアンナはサリンジャー作品を1冊も読んだことがない。彼女は、会社にはおくびにも出していないが、仲間内には「作家志望」だと伝えている(出版社や出版エージェンシーで働く人間に、「作家志望」は嫌われるそうだ)。というか彼女がニューヨークの出版エージェンシーで働いているのは、「安アパートで生活し、カフェで執筆する」という憧れの生活をしたかったからだ。

そんな彼女がサリンジャーを読んでいない。そのことは、同じく作家志望である年上の彼氏にも驚かれる。

いずれにせよ、彼女は「サリンジャーのファンとしてその仕事に就いた」わけではないため、「サリンジャーの役に立っている」ことで自分のしごとを納得させることができない。

しかしそれ以上に、ジョアンナは、世界中の人々がサリンジャーに対して向ける熱い熱い想いに打たれてしまう。誰もがこれほどの熱量で手紙を書いているのに、それに「クソ文」で返信するなんて、そんなことが許されて良いはずがない、という思いを捨てきれないのだ。

僕もきっと、同じように考えてしまうだろう。仕事として、上司に言われた通りにしなければならないことは理解しながら、「本当にこんなことが許されるのだろうか?」という気持ちはたぶん捨てきれない。その仕事がどれほどキツくても、どれほど理不尽でも、「正しく誰かのためになっている」という実感を持てるのであれば我慢できるかもしれないが、僕もジョアンナと同じく、そういう実感は持てないだろう。だからと言って、ジョアンナのように、上司から「君は一線を超えた」と言われてしまうような行動はきっと取らないだろうと思うけど。

この物語の面白い点は、そんな「サリンジャー宛のファンレターを読んでクソ文で返信する」という仕事が、結果としてジョアンナの人生を変えたという点だ。

この映画は、「サリンジャーのファンレターを読んでいる場面」の演出がなかなか面白いのだが、そんな場面の1つに、ワシントンから帰るバスで恋人が書いた小説を読んでいる場面がある。彼女は、彼氏が書いた小説に言い知れない不満があるのだが、しかしその場面で「本当に嫌なのは?」と問われた彼女は、

【何も書かない私】

と答える。そう、彼女は「作家志望」であり、せっかく執筆のためにニューヨークに住み始めたのに、全然書いていないのだ。

サリンジャー宛のファンレターが、どのようにしてジョアンナを変えたのか、具体的に語られないのだが、それを示唆するかもしれない場面がある。ジョアンナが子どもの頃から好きだった児童文学作家が久々に新作を執筆し、マーガレットと打ち合わせをするのだが、その作家が怒って打ち合わせを途中で止めて帰ってしまった場面について、マーガレットがジョアンナに意見を求める場面だ。

ジョアンナはここで、

【たぶん、作品から何を感じ取ったのか教えてほしかったんだと思います。
彼女にとってそれはとても大事なことです。
私にとっても。】

と答えている。

そして、サリンジャー宛のファンレターはまさにその集積と言っていいだろうし、それらに触れたことで、「自分もこんな風に、人の感情に触れる存在でありたい」と考えたのだろうと思う。

マーガレットの助手として働くジョアンナは、サリンジャー本人からの電話を取り次ぐ機会もあった。サリンジャーは彼女の名前を「スザンナ」と間違えて覚えたままだが、それでも、「極度の人嫌い」「孤高の天才」という世間のイメージとはまったく違う気さくなやり取りを続ける。そして話の流れで「作家志望」だと伝えたジョアンナに対して、「毎日書きなさい」「電話番で1日を終えるな」と真摯にアドバイスをしてくれる。

そんな大作家本人の言葉もまた、彼女の心に火をつけたことだろう。

内容に入ろうと思います。
ちょっとした旅行のつもりでニューヨークを訪れたジョアンナは、作家になりたいという夢を持っていることもあり、恋人と離れ離れになってもニューヨークに住み着く決意をする。ニューヨークに住んでいる昔からの友人宅に居候させてもらい、書店で知り合った年上の作家志望の男性と付き合い始め、彼に連れられてニューヨークの出版人が集まるカフェの仲間入りをした。しばらくそんな生活を楽しんでいたが、やはり長く腰を落ち着けたいと、人材紹介会社へと出向き、出版エージェンシーの仕事を紹介してもらった。
老舗出版エージェンシーで働くことになった彼女は、アガサ・クリスティーやフィッツジェラルドなど名だたる文豪と関わりのある仕事に胸躍る。しかし与えられたのは、サリンジャーのファンレターに返信するクソ仕事だった。

【作家を夢見た自分を決して偽れない】

彼女はファンレターを読み淡々と返信する生活の中でもそういう思いを捨てきれずにいるが、しかし一方で、

【現実と向き合おう。私は助手だ】

と自分を納得させようともしていた。

そんなある日、会社がどうもざわついている。何があったのかと聞くと、サリンジャーが名も知れぬ小さな出版社から30年ぶりに本を出すという、どちらかと言えば喜ばしいとは言えないニュースにバタバタしていた。通常出版エージェンシーは「作家に対して道を開くこと」が仕事だが、サリンジャーに関してはまったく逆で、「いかにサリンジャーを外部から守るか」が問題となる。そんなサリンジャーが、自分の判断で出版社と話を進めているのだから、ややこしいことこの上ない。

一方、ジョアンナはプライベートでもバタバタしている。やんわりと居候先から追い出されたジョアンナは恋人と同棲を始めるが、細々した部分で違和感が募ってしまう。

「作家志望」と言いながらまったく執筆出来ていない自分に対する苛立ちも募っていくが……。

というような話です。

多少の脚色はあるだろうけど、物語の重要な設定は事実に基づいているんだろうし、「これが実話なのか」と思うとなんだか素敵な世界だと感じる。

ただその素敵さは、「ジョアンナを取り囲む『素敵ではない環境』」があるからこそ浮き上がると言ってもいいだろう。

ジョアンナを取り巻く環境を構成する重要な人物は、彼女の上司であるマーガレットと、彼氏のドンだ。そしてこの2人が、なんとも言えず苛立たしい存在なのである。

マーガレットは全体的に「旧来の人間」として描かれる。舞台は1995年であり、「Windows95」が発売された年だが、マーガレットは「コンピューターは導入しないことに決めている」「コンピューターはかえって仕事を増やす」と頑なだ。また、そういう時代だったのだろうが、オフィスの打ち合わせ中でもスパスパ煙草を吸っている。最初の内はジョアンナを「仕事の駒」ぐらいにしか見ておらず、挨拶をしても無視するような振る舞いをする。

また、決してマーガレットだけではないが、「老舗出版エージェンシー」ゆえの傲慢さみたいなものも随所に現れる。日本には出版エージェンシーみたいなものはあまり根付いていないが、もしあったとすれば、この映画で描かれる「老舗出版エージェンシー」は、「夏目漱石、太宰治、江戸川乱歩などを見出し、出版を後押しした存在」みたいなものだと思う。ある意味で「アメリカ文学」の礎を築いたような存在なのだろうし、傲慢さが染み付いているのも仕方ないかもしれないが、やはりなかなか受け入れがたい。

そんな世界にあってジョアンナは、出版の世界の理屈に染まらない。彼女の行動すべてが正当化されるわけではないが、「老舗出版エージェンシー」の理屈からはみ出すような行動こそが、ジョアンナ自身の良さであるように思うし、そういう行動の積み重ねによって新しい世界への道を切り開いていったようにも思う。

また、彼氏のドンは、「モテるのも分かるけど、嫌われるのも分かる」みたいな存在だ。どことなく「ヤバい」香りも漂わせる「魅力」もありつつ、「些細」という言葉では割り切れない「受け入れがたさ」も見え隠れする。そんな人と関わることで、「自分が本当に求めているもの」が何かに彼女は気づいただろうし、こちらもまた新たな一歩への後押しになったことだろう。

原題は『My Salinger Year』であり、やはり国民的作家であるサリンジャーの名前が入っていて欧米ではこのタイトルが相応しいだろう。そして、邦題を『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』と変えたのも良かったと思う。この映画は「サリンジャー好き」でなくても楽しめるし、「ニューヨーク・ダイアリー」というタイトルも映画全体の雰囲気に合っていると感じる。

なかなか良い映画だったと思う。

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長江貴士
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