【廃寺宣告】①崩壊…国有化されたお寺、過疎と共に
※文化時報2020年7月29日号掲載の連載記事です。次回は11月12日にアップ予定です。
かつて寺院は地域の中心にあり、人々の生活の一部だった。それが、いまや昔日のにぎわいは見る影もなく、農山村や漁村では朽ち果てた堂宇もある。浄土宗は、寺院問題検討委員会で無住寺院の復興に取り組むものの、廃寺という決断を下すこともあるという。過疎化と高齢化は、何をもたらしているのか。中国地方での取り組みを追った。(大橋学修)
瓦屋根が大破 住民は関心薄く
生い茂った樹木の向こう側に、瓦屋根が大破した本堂があった。立ち入る者を拒むかのように、崩れた梁や垂木が広場を覆い尽くしている。崩れ落ちた脇戸から中をのぞくと、大穴が開いた屋根から光が差し込んでいた。
島根県大田市仁摩町の大国(おおぐに)集落にある浄土宗金皇寺(こんこうじ)。集落の風景をかたどる一部ではあるが、「どうやら解体されるみたいね」と、ある住民は関心がなさそうに話す。
大国集落は、JR仁万駅と石見銀山遺跡を結ぶルートの中ほどにある。町の中心部から約3.5㌔。自動車で数分の所にある農村だ。
大国集落の人々にとって、4月の御忌大会=用語解説=が、金皇寺の懐かしい風景だ。檀家は50戸にも満たなかったが、仁摩町の浄土宗寺院は同寺を含めて2カ寺のみだったため、集落外からも信者が訪れ、にぎわいを見せていた。
30戸ほどの大国集落は、浄土真宗の門徒が大半を占めている。それでも人々は、宗旨の異なる金皇寺に供物を届け、御忌大会では食事の接待などに携わった。ある高齢女性は「振る舞われたけんちん汁を思い出す。釜のおこげができると塩をふって、子どもたちを大声で呼んだ」と目を細めた。
寺の隣の大国主神社の縁日では、四つの集落が集まって祭りを行い、桟敷を特設して神楽が舞われた。寺の境内は、子どもたちの遊び場になった。
大阪から戻れなくなった住職
金皇寺は、人口減少と高齢化の影響を大きく受けた。大国集落は高齢者ばかりになり、周囲の集落からは人がいなくなった。ある女性(73)は衰退ぶりをこんな表現で語る。「以前は、家ごとに2〜3人の子どもがいた。イチジクの実がなると皆で登って採った。今は50匹ほどのサルがたむろする。この前は、桃の実が全部とられた」
寺院収入が減少したため、最後の住職は1980年代ごろから大阪市内の大寺院で勤務。病を患い、金皇寺に戻れなくなった。御忌大会は営まれなくなり、神社でも神楽を舞うことがなくなった。
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