糖質制限がなんだ。それでもパンが食べたい。
焼きたてのパンを食べている夢で起きた謙也。大概深夜に起きる。朝の零時頃だ。昔、インターネットの創世記には、電話回線が安い深夜の11時から早朝の6時まで、格安料金だった。今では笑ってしまうが、その時間に起きてネットを繋いだ。Wi-Fiなどない時代だ。その習慣が、七十歳になった今でも続いている。誰もが深夜まで起きていると錯覚していた。零時がスタートだった。
その習慣で、猫が活動する深夜に起こされる。ドアマンのように、深夜雨戸を開けて、待ち構えている猫二匹を外に出すことが謙也の生活は始まる。食洗機で洗いおわった食器を食器棚に戻し、シンクをアルミ束子で洗い流し、冷蔵庫にある3個パックの小さな豆腐を一個取り出して、小皿に移す。醤油とチューブの生姜をかけて食べる。豆腐を食べるのがメインでなく、高血圧と糖尿病の薬を全3錠を飲む。
朝食と一緒に飲むためだ。時には食パンやお茶漬けの時もある。この生活は、ほんの最近、医者に行ったために始まった。「絶対に医者に行ってよ」と妻の優子から強く言われたために仕方なく、花田という掛かりつけの医師がいるそこそこ大きな病院で診察を受けた。「もう4年も来ていないな」と言われた。高血圧は持病だが、支障もなく過ごせていた。若干気になったのが、血糖値の高くなる糖尿病の方だった。採血後、診断が出た。「7. 5だよ。これは、糖尿病だよ。5.9以下にしないとダメだな。血液もドロドロだし。腎臓、肝臓などの臓器は正常だからね」とプリントアウトされた小さな紙片に様々な数値データが書かれていた。よくわからないが、謙也は糖尿病で、高血圧の病気だということは確かなようだ。
毎日、二週間にわたり薬を3錠づつ飲んでいる。家にあるコンパクトなオムロン製の血圧測定器で三日おきに期待しながら、血圧を測っている。薬を飲んでいていても大して変化がない。「やっぱり、薬はやめたほうがいいかも。かえって、調子が悪くなっているような気がする」と謙也は思った。
半身浴と白湯が血圧や糖尿病に効くとある本に書いてあった。それだけは続けている。「そう、運動も、散歩だが6千歩から一万歩を目指して歩いているから自然治癒でいい」と謙也は自己分析している。「自然治癒が俺にはあっている」と自信はあるのだが、医者に数値で出されると心が折れる。子供の頃は、血糖値など気にせず、バクバク食べていたと思い出していた。
小学生の頃、松田千代子という髪の毛が金髪のように見える大人しい女の子と仲が良かった。という言うより、パン屋を営む実家に向かう帰り道に誘われた程度だった。今で言うベーカリーで、彼女の兄の代になって、工場生産をする大きな会社になっている。
謙也は、千代子と中学三年の時に同じクラスになった。「あの時に食べた焼きたてのパンの味が忘れられないよ」と言うのが、二人の会話であった。鼻垂れ小僧が、誘われるまま彼女の店先で「これあげる」と言われたパンは、今まで食べたことがないふっくらとして、コクがあるものだった。冷めた舌に媚びりつような菓子パンしか食べたことがない謙也は、驚きを隠せない。「うめー」と叫んだ。その後、早朝に開くパン屋やベーカリーで焼きたてパンを食べれるようになったが、ご飯と味噌汁しか食べたことがなかったような謙也に衝撃が走った初体験だった。
パンといえば、パリで食べたクロワッサンも美味しかった。クロワッサンそのものというより食べ方の方だが、パリの小さなホテルを知り合いの画家夫婦にとってもらていた。雰囲気のある小さなホテルは、毎年2回訪ねていたが、初めての日本人好みのホテルだった。夫婦ともパリ在住の日本人に頼んだのも、よかったのかもしれない。
ホテルがどこにあったのかも忘れたくらいだが、食堂に二人の若い田舎から来たと思われる仲の良いカップルがいた。何気に見ていたら、クロワッサンをカフェオーレの大きなカップに浸して食べていた。妻の優子も一緒だったので、二人に衝撃が走った。「え?」と二人同時に小さく叫んだ。「まるで、パリのお茶漬けだ」と謙也がホテルの部屋に戻ったとき、興奮覚めやらずに大騒ぎした事を鮮明に覚えている。若者二人が部屋にかえったので、心が踊ったまま、その場で食べてみた。「美味しい。こんなの初めて」と優子もはしゃいだ。
パンで思い出したことがある。モスクワ経由でユーロッパに行った時のことだ。初めての海外旅行でしかも一人旅だった謙也だが、ウィーンに着くまでは、パックツアーのような感じだったので関西系の明るい青年たちやイラストレーター夫妻など5〜6名で一緒に行動した。ナホトカからハバロスクまでは、列車で行き、ハバロスクからモスクワまで空路を使った。その列車の中の食事毎に、必ず黒パンと白パンが登場する。ロシアで有名な黒パンは、重くて硬くて酸味が強すぎるので初めての日本人は、大概食べれない。グルテンプリーのライ麦パンは栄養抜群の健康食品の一つだそうだが、予備知識のなかった我々日本人は黒パンを避けながら白パンを食べた。今考えると日本人観光客向けに白パンを加えてくれたというのが正解のようだ。
だから、ライ麦パンの黒パンの方が、糖尿病患者はいいようだ。なぜだか、パンが食べたくなってしまった。「パンやパスタを食べるより、日本人のソウルフードのご飯の方が、糖質的にはいいらしいよ」と優子がいつも諭す。「制限されればされるほど食べたくなるのだ人情だ。それだけ、贅沢になった結果が病気だ。」と謙也は思った。本棚に「糖質制限」と書かれた本が何冊かある。もう何年も前のものだ。「あの頃は、豆腐ばかり食っていた。本当に辛かったな」と一人で呟いた。「できれば、バターをたっぷり塗ったパンが食べたい」