渡辺健一郎×小峰ひずみ 往復書簡(第三回)
顕れる観客 渡辺健一郎
やはり往復書簡の相手にあなたを選んでよかったと思いました。あなたと何かをするにあたって、往復書簡という形式を選んでよかったと思いました。何か正しい知識やあるべき態度を提示してくれるというよりも、そこから考えられることがたくさん湧出してくる――私は読書体験にそういうものを期待しており、まさに小峰ひずみの文章はその期待に応えてくれる。自分の文章もそうであれば良いなと常々感じていますが、私などはどうしても「なるべく誤読されたくない」という欲望が強く、放言の価値に身を委ねることができません。そういう意味であなたの文章にはやはり憧れを抱きます。様々に応答すべきことがあると感じられました。文字数の都合もあるので、恐縮ですが前文は割愛いたします。
まずあなたからの返答を呼んで、私は何かを考える際、「過去に考えていたこと」が「大事だった(かもしれない)もの」として、どうしても自分の中に蘇ってきてしまうのだろうな、ということに思い至りました。そしてこのことが単線的な思考を許さなくするのだなと。それゆえ、いつも考え込んでしまい、対談などの即興のパフォーマンスがあまり上手くいきません。すくなくとも今のところその技術がありません。しかし、書いているときにはある程度そうした「記憶」の取捨選択ができますし、「本題からは逸れるが重要だ」と思われたものは註に忍ばせることができます。いずれにしても、私にはそういう思考の行きつ戻りつがある。そのため書くのも読むのも、大変遅い。
そういえば『平成転向論』の中でもっとも興味深かったのは、鶴見俊輔と谷川雁の思考のリズムのくだりでした。思考には様々なリズムがあり、まさにそれこそが思想的な対立の軸とみなされている。このいくらでも膨らませられそうな議論を、強くはこだわることなく駆け抜けていくあなたの文章のスピード感も大変ダイナミックに感じられました。
人間のあいだで対立や分断を生む大きな要因の一つは、このリズム感の違いなのではないか、と思っています。どんな職場でも、手際よくいろんなことを済ませたい人と、一つのミスもなく丁寧に進めたい人との間には不和が生じます。両者は根本的なところで相容れません。あるいは教育や政治をめぐって「じっくり考えるべき」と「そんな悠長なこと言っていられない」という態度の違いは、思考の「内容」以上に、擦り合わせることが難しい。「結局何が言いたいの?簡単に説明して欲しい」、「問題ばっかり提起してないで解決策もセットで示せ」という人と、哲学との相性の悪さもこういうところにあるな、と思います。私もそういう気分になることは多いので分かるのですが。
ときに人が小峰ひずみの文体に不快感をおぼえるのだとしたら、その早すぎるリズムが問題にされているのかもしれない…と思いました。もっと直截に言うならば、早すぎて何も考えていないように見えるのかもしれない笑。ただあなたには、香車の様だと自称する思考(しかしと金に成ることも、相手の持ち駒にされてしまうことも念頭に置いた、決して単純ではない思考)がまずあって、そのスピードを活かすために、様々な思想家や現場や直観の言葉が手を変え品を変え連接されていくのでしょう。香車の活路を模索する指し回しは、単なる虚飾の産物とは言えず、確かな速度と重み、すなわち力を持っているのだと思います。「勝つ」ために、ときにあえて選択される筋悪な手は、読者にとってある種の謎になっている。読者は、その謎の源泉が一体何なのか、言い当てたい気持ちになってしまうのかもしれません。私が往復書簡を始めたいと思ったモチベーションの一つもそこにありました。
啓蒙について
小峰ひずみの文章では、詩人、ゲリラ、啓蒙といった大きな語彙が、数珠つなぎの様に置かれていきます。自分の味方になりそうな概念、存在、言説を、どんどん自分の陣地に引きずり込んでいく。私も大きな語彙を好んで用いますが、私の方は特定の語の細部や肌理にとらわれて、そのまわりでぐるぐるまわってしまうところがあります。
例えば「啓蒙enlightment」は、私としてはかなりこだわりたい語です。『平成転向論』の序文でもまさに光(とその陰)を問題にしていましたね。啓蒙で何に光を当てようとしているのか、当てるのは誰か、当てることにどの様な困難があるか、といった、啓蒙の概念そのものをめぐるイメージについて、語るべき余地はあるでしょう。
カントの『啓蒙とは何か』は短さのわりに多大なる謎を秘めたテクストです。聖職者が目の前の信者たちを相手に教義を説くのは理性の私的使用だが、文章を書くことで「公衆一般、すなわち世界に向って話す」とき、それは理性の公的使用と呼ばれ、カントは後者にのみ「自由」という価値を置きます。重要なのは、カントが知性を行使する「決意と勇気」を問題にしているという点です。偉い先生が言っているからとか、単に本に書いてあるからとかではなく、理性を自由に使用するのだ、という。
ただ自由といっても何を言っても良いというのではありません。ここで啓蒙です。啓蒙とは、公衆が自らをして知性を行使させていく、まさにその社会的な運動のことを示しているように思います。それは特定の誰かが誰かに対して行うものではありません。世界の自発的な啓蒙、とでも言えば良いでしょうか(注1)。
考えなければならないのは、何が動因となってこの啓蒙は駆動するのか、ということです。『啓蒙とは何か』では、明確に「宗教」がその位置を担っています。カントから「神」を抜いて、啓蒙の運動だけを取り出すことはできません。カントを真にうけるのか、あるいは神にとってかわる何かをさがすのか? 「誰もが学者たりうる」というのは良いにしても、 何が人を学者たらしめるのか、そこに「教育」は介在しないのか、というあまりに素朴な問題が、しかし私には肝要だと思われるのです。
カントを再読して思いましたが、ランシエールはこの本を下敷きにして『無知な教師』を書いていますね。疑いなく。基本的なテーゼはそのままに、『啓蒙とは何か』の公/私についての考え方を組み替えようとしている。そしてもちろん彼は神を経由せず、「無知な教師」という動因を考える…。この問題についてはまだはっきりとは見えていないので、どこかで考えたいと思います。余談でした。
観客を(どの様なものとして)想定するか
さて、やはり「教育」と「政治」という語についての前提を、もう少し確認しておきたいと感じました。この語をどの様に使うかということが、すでに政治的な争点になっているからです。これは決して言葉遊びなどではなく、政治的コミュニケーションの前提を問う切実な問題です。少なくとも私にとっては。
梅田で飲みながら「何が世界を変えるか」の問いに、「そりゃ教育でしょ!笑」とノリで応えたのは確かに覚えています。われわれが社会を形成するにあたって、教育は根本的な要素であるし、世界についての思考は「教育」についての思考とほとんど同義だろう、くらいに構えているのも本当のところです。
ただしお分かりいただけると思いますが、私は教育/者という語を「何かを論じ解説する」のではない、と強調しているつもりです。その上で、私は「何らかの目的意識をもった」ないし「ひとを動かしてしまう」コミュニケーションをすべて「教育」と呼んでいる、あるいは少なくともそう呼びうると考えている、ということに気づきました。したがって、あのときのノリにもう少し言葉を足すならば、あらゆるコミュニケーションが教育であり、偏在的、暫時的な教育によって世界は少しずつ(良くも悪くも)変わって(しまって)いっている…と、ひとまずはそう考えています。汎教育主義とでも言っておきましょうか。その意味ではもちろん「闘争‘も’教育である」わけです。
こう言うことで、私は何を問題にしているのか。それは、コミュニケーションの渦中の存在は常に権力者でありえてしまう、ということです。そして、政治をめぐる思考も実践も、そのことを無視することはできないと思います。
レーニン=吉本の、「革命」こそが教育するのだ、という発想には大変共感をもちます。そしてまた「無責任に言ってみる」というのもまさに私が演劇/教育ということで考えようとしていたことの大きな軸の一つですから、もちろん同調します。
ただ「無責任」に「言ってみる」にしたって、完全に適当に、無根拠に、何の信念もなく、虚空に向かって放言しているのではないはずです。すなわち、「何かには」責任を、使命感を抱いているのではないでしょうか。
あなたが引用してくれた吉本のレーニン評では「言ってみるだけ」以上に、「無数の錯綜した現実的行為の存在を透視するだけの洞察力」の重要性が語られていました。それでは小峰ひずみの洞察力は、どこに向けられているのでしょうか。どこに向けるべきだと考えているのでしょうか。この洞察の問題が、「学者」を可能にする条件となっているのではないでしょうか。
言うなれば演劇の歴史も、「言ってみる」という政治的実験の歴史です。そこで賭けられてきたのは「言ってみる人たち」と「観客」との関係性です。特に二十世紀以降、(見方によればシェイクスピアだって、ギリシャ悲劇だってそうだったとも言えるのですが)舞台上と観客との関係のあり方を変えようとする実験が無数に行われてきました。寺山修司が、無責任に人の家のインターフォンを押し、それを演劇と呼んでいたことを想起すれば分かりやすいでしょう。まさにゲリラでしょうか。
街頭演説にも良し悪し、上手い下手があると思うのですが、道行く人がどういう人たちか、仕事帰りで疲れているのか、快晴で心地良いのか、地域性や年齢はどうか、今自分の声はどう聞こえているか、といった、観客との関係の作り方を配慮しているかどうかというのが大きいのではないでしょうか。そうだとするならば「俳優や教師であることが持つ時空間の支配力」は、むしろ演説家こそ獲得すべきなのではないでしょうか。演劇が時空間それ自体と、そこに位置する人々、物々への洞察を絶やさなかったように、ゲリラもいつ、どこで、誰に対して、といった意識は手放さなかったはずです。その観客に対する効果は完全にコントロールはできないにせよ、それでも観客のことを想定して行われたはずです。
なお先月号の「群像」の論考で福尾匠は、観客=読者を、「いてもいなくても良いもの」として考えることを提案していました。究極の自由な散文としての批評は、観客の存在を問題にしないことが可能なのではないかと。誰に書くというのでもなく、いつか誰かに届け、と祈ることすらなく、ただ書く(注2)。私などは本当にそんなことが可能なのだろうかとは思ってしまいますが、検討に値する面白いテーゼだとは思いました。その方が翻って声が届く場合もあるでしょう。いずれにしてもよりよく書くためには、やはり観客とは何かということを考えないわけにはいかないはずです。小峰ひずみの「言ってみるだけ」を字義通り捉えると、一見福尾匠と近そうでも、しかし恐らくそうではないと思うのですが、果たしてどうか。
あなたは「学者先生」と呼ばれてしまうのを嫌がっていますが、書くことが必然的に学者の役割を担ってしまいうる、ということを切実に考えなければなりません。私も勝手に「渡辺先生」と呼ばれることが増えてしまいました。嘆息します。しかし加齢とともに、活動の歴史が蓄積するとともに、否が応でも自分が帯びてしまう権力を、否認するわけにはいきません。
あなたの「教育とは立ち上げるものだ」というテーゼは大変良いなと思いました。同じ教師が同じ教壇に立ち続けないためには、あらゆる権力に待ったをかける可能性を担保するためには、自分が世界の中でどういう位置を占めてしまっているか、と考えねばなりません。観客との関係は、その上で初めて結び直すことができるのでしょうから。
ここまで書いてきて、ああ、私は「無責任」なるものに責任を負わねばならないという逆説に身を委ねているのだ、ということが分かってきました。つまり「無責任に言ってみる」を可能にする条件について考えているということです。先日國分功一郎が『目的への抵抗』という新書を出版していましたが、この本も「脱目的を目的として」書かれています(注3)。こういった矛盾以外ではあり得ない思考、哲学、あるいは演劇がいきつく一つの極致がここにある気がします。
答えが出そうもない問いにつきあうこと。何という遅さでしょうか。しかし私はこの遅さをたずさえていくしかないと思っています。ポピュリズムに抵抗するために、しかしポピュリズムを捨てることなく戦おうとしているあなたにも、きっと通ずるところがあると思うのですが、どうでしょうか。
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