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いつか読もうと思ってずっと読まずにいた本を読んでみる
ついに、と言うべきか、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を読もうと思っている。
そういうわけで今回は「読もう!」と思う気持ちをnoteにしたためている。いいからさっさと読めよ、と言いたくなるが、「読みたいと思っているのに読んでない状態」について言語化しておきたいと思ったのだ。
『ニコマコス倫理学』はアリストテレスによる哲学書。読んだことのある者は例外なく多くの尊敬を集める。
難しそうだなあというイメージと、本の分厚さからこれまで読まずにきた。
手にとってチラッと目を通したことはあるが、すぐに読むのをやめてしまった。文字を目で追っても意味が入ってこない。難しげな本を読むとよく味わう“自分の知的レベルが追いついていない惨めな感覚“。
『ニコマコス倫理学』は次の一文から始まる。
いかなる技術、いかなる研究も、同じくまた、いかなる実践や選択も、ことごとく何らかの善(アガトン)を希求していると考えられる。「善」をもって「万物の希求するところ」となした解明 の見事だといえる所以である。
この一文そのものが特別難解なわけではないが、この感じでずっと書かれている本を通読すのがどれほど困難か、なまじある程度の読書経験がある僕には理解できた。
登山に来たら山の入り口が鎖場だったようなものである。軽いハイキングのつもりでアリストテレスの山脈に来るべきではない。僕はそれ以上読み進めるのをやめた。しかるべき準備をしてから挑むべきだ。
今は手を引く。学習すること、それが今の武器。
要は挫折したのであった。
というか実はそんな経験は稀というわけでもなく、考えてみれば「いつか読まないとな」などと思いつつ読んでいない本がたくさんある。
例えば『資本論』とか『純粋理性批判』とか『カラマーゾフの兄弟』とか『百年の孤独』とか……列挙してもし尽くせない超有名だけど読んだことのない本たち。なぜ、分厚くて難しそうな本にこれほどまで心惹かれるのであろうか? まるで火にたかる蛾のように。
それらの有名で難しそうで分厚い本は読書家を目指す者たちにとって憧れの灯火であると同時に、深く覆いかぶさる暗い影のようなものだ。
必読の「名著」と呼ばれる本。しかし実際のところ、読んだことのない名著は名著ではない。
それどころか、読むべきなのにまだ読んでいないという焦りが転化してコンプレックスにすらなりうる。
多くの読書家たちが「読書家」を自認したくてもできない(結構いるのではないか)のは読んでいない本が一杯あるという引け目負い目のせいだといっても過言ではないはず。
「俺って読書家だなあ」などとつい油断して思おうものなら、もう一人の批判的な自我が
「読んだ本と読んでない本、どちらが多いと思う?」と煽ってくる。
言い返すことはできない。何故なら、これまで読んできた本よりも、読んでこなかった本の存在の方が大きい気がするからだ。
「面白そうだな〜」と手にとって読んできた本よりも歴史的古典の方が価値が高い気がするからだ。
確かに俺は本を読む。しかし、胸を張れるほど読んだのか? 批判的な自我に脅かされて、自信はすっかり縮こまっている。そしてついには、「俺って読書に時間を費やしてるのに読書家とは呼べない、ただの陰キャにすぎないんだな」という自己認識にまで陥ってしまうのである(まあ、あながち間違ってるわけではないかもしれないけど。)。
人生とは常にこの批判的な自我との戦いである。
そしてこの疎ましき自我を倒し、胸を覆う暗雲を振り払う最も有効な方法は行動を起こすことに他ならない。つまり、御託はいいから本を読めということになる。上等じゃん。
まさに今、僕は僕を過去のものとし、新たに生まれ変わる。
そして新しい僕の歴史の最初の1ページ目にはこう記述されるであろう。
2023年、『ニコマコス倫理学』を読破する。
まずは『100分de名著 アリストテレス『ニコマコス倫理学』』を読むぞ(高地順応)。