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書店パトロール61 言語大戦

書店パトロールは始めるとキリがない。
本は無限にあり、たくさんの魅力的な本がある。

まずは発売されたばかりのこの本を手に取る。

映画監督、ラナ・ゴゴベリゼ。ジョージアの映画、などは、私は全然守備範囲ではない。
この本は高額だった。6,000円以上する!た、高い〜。
然し、重要な本である。
御年95歳!ラナ・ゴゴベリゼ。一昨年、新作『金の糸』が公開されているが、私は未見だ。

ジョージア、というと、ソ連の構成国の一つだった。最近はウクライナ侵攻のせいで、よくニュースでも目にする。スターリンの出身地でもある。

その、ジョージア映画祭が今、ユーロスペースで開催されている。ユーロスペース。映画好きなら、一度はその名を記事やらで目にした映画館。然し、私は行ったことはない。

私は、ここで紹介されている映画は一本たりとも観てはいない。然し、映画評論家、であったり、映画ライター、を名乗る者であれば、全てとは言わないが、半分はチェックしておいてほしいものだ。

まぁ、この映画祭と関連付けての出版かもしれない。
然し、ジョージア、といえば、セルゲイ・パラジャーノフも出身国でもあるが、なんというか、映画は観ていないが、ラナ・ゴゴベリゼとも似た風情の美的感覚であり、あの辺りは、こういう感じなのかなー、とか浅い感想。

然し、やはり、藝術、と、いうものは、国家や人民、歴史の交錯からは逃れられないものであり、そこにある映画のDNAが、地域ごとに異なるものであることをしみじみ感じてしまう。思想、文化、美術、それらが一体となると、個人を超える国家が顕れる。その中でもより強烈な個性を持つ藝術家のみが、それに抗うほどの存在感を作品内に示すが、それでも国家の縛鎖から逃れることは不可能であり、そもそも、逃れる必要性がないのかもしれないが。
そもそも、文学であれば、言葉、というものは、必然的には(例外も複数存在するし、その筆頭がウラジミール・ナボコフ)母国語で作品を書くわけで、母国語というのは歴史そのものであり、幾つもの言葉、例えば、西夏文字などは漫画の『シュトヘル』においては、文字を生かすための闘争が行われるほど、文化の筆頭であり、国の命である。

日本文学も、日本語という縛鎖から逃れられないし、それはグローバル化が進んで、多国籍な国になり、外国語を用いて日本文学を書く、という方法が取られても、まだまだ本道ではないし、それが日本文学として違和感なく吸収されていくにはまだまだ時間がかかるのだろうし、まだ長い歴史の流れで消えていく可能性もある。

日本文学、と、いうもの、は、日本語で書かれたもの、という縛りもあるだろうし、二人のノーベル賞作家、川端康成の『美しい日本の私』においては、YASUNARIの如才ない社交術(ペンクラブ会長や文壇での地位、外国人翻訳家との関係性)&、外国人が好きな日本の風景と文化、それは、京都であり、芸者であり、温泉であり、茶道であり、何よりも、日本語のニュアンス、を書いているからこその受賞であり、大江健三郎の『あいまいな日本の私』は、ある意味、より、その日本人のニュアンス、というものに大して、より正鵠を射ているように思う。

日本語は難しい言語だとされている。私からすれば、多国語は全てウルトラに難しく、英語は比較的わかるが、長文など書けるはずもないし、リスニングも全然頓珍漢に訳していることの方が多いので、やはり、言葉の違いを乗り越えるのは相当な困難性を伴う。
英語から日本語に訳されていく中で、いくつも意味、重大な意味が殺されていしまい、味気なくなる、逆もまた然りであるし、それはニュアンスだけではなく、文化というものそのものを屠殺することに等しく、この難事業に挑む翻訳家という職業は大変な仕事である。
日本語の曖昧さ、ニュアンス、これを汲み取るのは容易ではない。そして、その曖昧は、連綿と、それこそ『源氏物語』、いや、日本最古の物語である『竹取物語』の頃からそうであり、現に、かぐや姫は、四人の皇子たちに、無理難題な注文をして困らせるではないか(暗に断っている)。まぁ、これはニュアンス、と、いうか、察しろよ、というわけだが、然し、四名はハッスルしてしまう。男は1000年以上も昔から、女人の断りに気づかない種族なのである。

この冷たい目。

さて、そんなことを思いながら歩いていると、映画興行に関しての本を見つける。

私は、2001年くらいから毎週の映画興行を逐一調べているので、結構な興行収入マニアの方ではあるが、やはり、映画興行で面白いのは、予想外の映画の大バズリや、ヒット確実視の映画の大コケ、単館映画のロングランの軌跡や、大作映画のぶつかりあいなど、たくさんあり、国内、北米、それぞれに面白いのだ。
然し、この本は3,850円もするので、うーん、我慢。

で、次に、イーサン・ホークの本を手にする。

イーサン・ホークの親族の家で発見された書簡をベースに作成されて、妻のライアン・ホークによる手直しが行われている。
15世紀の騎士、トマス・レミュエル・ホークの書簡だという。え!イーサン・ホークの祖先って騎士だったの!?
私の心は西洋の中世に飛ぶ。そして、ポール・ヴァーホーヴェンの『グレート・ウォリアーズ』を思い出し、ああ、『ベルセルク』の実写版を早く作っておくれよ!と思いながら、然し、今のこの、NetflixやAmazonプライムでの金をかけたドラマシリーズが可能なら、『ベルセルク』も可能であり、既に企画が動いている可能性がある……と、思いながら、然し、イーサン・ホークに演じられる役はなさそうだ……と、この本を見送る。

ああ、ベルセルク。漫画は偉大だ。確かに、『ベルセルク』は日本人の描いた西洋文化であるだろうし、本場から見れば噴飯もののシーンもあるだろうが、個人的には、それを超越した暗黒中世が描かれているし、外国にも大勢のファンを抱えている。
ああ、ベルセルク。もう一度読み返そう。22巻まで(それ以降は熱量が落ちちゃう)。

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