書店パトロール64 思春期に少年から大人に変わる〜♪
私は、今年の大河は途中下車した。
面白くなかったから、だというわけでもなく、単純に、チャンネル争いで敗けたが故の下車である。
来年は観たい。然し、基本的に、私にとり大河ドラマのピークは放映前の新年の新聞紙の広告やインタビュー、つまりは、始まる前の高揚感であり、残念ながら、10月ともなると、もう来年の大河の話題が始まるので、もののあわれを感じる次第。
で、そんな私の目の前に、蔦屋重三郎の本が。
来年の大河である。横浜流星である。
横浜流星さん、と、いえば、来年の映画、『国宝』でも主人公格の一人を演じるのだが、私は『国宝』は全くいい小説だと思えないけれども、追加キャストで驚いた。渡辺謙、と、永瀬正敏、の二人が重要な役で出るのだが、小説を読んだ身からすると、うーん、逆の方が良くないかな、と思ったり。
で、まぁ、そんなことはどうでもよく、私は、浮世絵には疎いので、この本を買い、江戸文化を少しでも学ぼうかと、そう思ったが、生憎、1,650円は大金であり、そもそも、こう、興味が出たとて、パラパラ捲るだに、識らない浮世絵師の名前が並びに並んで、うーん、こいつぁなかなかハードルが高いなー、とか思ったり。何か取っ掛かりがあればいいのだけれども、まぁ、然し、今年の大河も敷居は少し高いけれど、来年は、これはもう、さらに敷居が高い気がするなぁ。
浮世絵、と、いえば、昔、原恵一監督の『百日紅』を劇場に観に行った。葛飾北斎の娘が主人公の映画であるが、内容は覚えてない。そういう映画が多すぎる。そう考えると、少しは血肉になっていればいいのだが、ほぼ忘れてしまっている、例えば、『そのときは彼によろしく』など、観た意味があったのか。何もないだろう。そういう時間の使い方の虚しさが、私の胸に去来する。
原恵一は『河童のクゥと夏休み』、『百日紅』も、普通にいいが、『カラフル』が一番好きだ。あれは泣ける。『かがみの孤城』は微妙だった。
だが、一番の最高傑作は、『ドラミちゃん アララ・少年山賊団』である。
あのキレキレの演出、あの、冒頭の、22世紀の、ある種の『ブレードランナー』感溢れる未来描写。そして、雨か……というドラミちゃんの台詞……。うーん、レトロフーチャー。
で、そんなことを考えていると、高倉健の名前が。
高倉健の愛した食卓。食は人生だ。食べることは生きること。なーんて、そういう言葉をよく聞くけれど、やはり、食い物、というのは、この飽食の時代、ついつい有り難さを忘れてしまうけれども、いつだって、心に海上レストランバラティエを置いておきたいものである。
海上レストラン、と、いうと、昔、noteでも書いたが、アフリカに、海上レストランがあって、名前はザ・ロック、といい、それは、スコーピオン・キングであるドゥエイン・ジョンソンとは何も関係はないが、写真を見るとすごく素敵なので、そこで御飯を食べたいのだが、行くまでのハードルが、蔦屋重三郎周辺を調べることの比ではないので、まぁこれもまた夢か。そういう、夢の場所はたくさんあって、やはり、人生、選択、選択、である。
ここに、その紹介ページを引用させていただこう。
で、次に気になったのは、原書房の文化史シリーズの新刊。
鼻、かぁ。まぁ、鼻、というのは、フェイス、において、最重要である。瞳は、誰もが美しいのだが、こう、全体を整えているのは、鼻筋、鼻が物を言う。そして匂い。私は匂いフェチだ。それも、印刷物の匂い、そのフェチなので、パンフレット、雑誌、書物、チラシ、などなどの、そういう、紙ものは、匂いをクンカクンカ、クンカクンカ、と、まぁ、ハム太郎ばりに、クンカクンカするのだ。この本の表紙、NOSEのОの部分が鼻の形になっていて、ああ、鼻いいなぁ、鼻好きだなぁ、と思う。漫画とかアニメーションだと、鼻の穴は省略される。時折、リアリティの世界において、鼻に意識がいき、すごい、あの人、鼻に穴が2つ空いている……、まぁ、自分もだが、然し、鼻の穴、というのは、明らかにへんてこりんだが、普段は気にならない。然し、どうしてだろうか、鼻くそと目くそだと、鼻くその方が汚い気がする。
で、そんなこんなで、次に手にしたのは
いやぁ、ハイカラーな表紙だ。これはいいなぁ。明治、大正、昭和、の三角形、トライアングルの美しさはとんでもないものだ。平成、は、まだこの枠に、いや、平成、は、やはりこの枠に仲間入りすることは難しいだろう。なんたって、平成30年間、これはもう、何か、一つのポールであって、令和とも繋がっていない気がする。
銀座に、ハイカラ、もう、これだけで、お腹いっぱいだ。3,960円、というのは、映画が2本観られる額であり、暫し悩んで、やっぱり、買わない。
そうしていると、今度はタイトルで惹かれた本が。少し前に出た本のようだ。
ぎょっとするようなタイトルだ。
子供を見世物にする、そういう非道い男の話かと思われるが、当時の医学では死ぬ運命だった子供たちが、彼の行為によって生きることになる。ものの見方や捉え方を逆転させる本だ。
優生思想の元では生きられない人々は今の時代も大勢いるのだ。昔ならば特にそうだろう。私はこの本を読んでいないので、そもそも何も言える立場にはないのだが、これはちょっと気になる本だ。
そんな私の眼前に、種村季弘の本が現われた。
巻末に、御子息のインタビューが掲載されていて、ああ、これは読みたいなぁ、でも、3,630円は高いなぁ、と我慢。
作品と評論は分かち難く結びついている。評論、とは、作品を紐解くだけではない、別の視点、観方、読み方を与えてくれる。そのような評論には、そうそう出会えない。基本的には、感想に終止していて、テーマや背景などを小利口にまとめているのが関の山である。
本物の評論家は、世界を一変させる力があるのだ。それは、作品の本質に触れているということだ。
この作品はなんだ、この作品の意図はこういうことだったのか……、という、それを伝えながら尚且つ作品を土台に評論そのものが藝術へと昇華される、そのようなことが出来る評論家。
種村季弘や澁澤龍彦は、どちらかというと、紹介が得意だと、そう聞いたことがある。つまりは、まだ日本にはその存在を識られていない綺想の紹介者だと。
そんなことを思いながら、『SANDA』の最新刊にして最終巻を手に取る。
変な漫画だった。最後まで。これがアニメ化するのか……。この漫画は作品のテーマ同様、大人へと近づく少年のような漫画だ。少年期の意味不明さ、歪さ、不可解さ、勢いに溢れていて、物語の完成度は高いとは言えない。けれども、無二の魅力は秘めている。
けれども、結局、最後は丸くなったということで、これもテーマの最終回だ。
華やいだ祭りの後
静まる街を背に
星を眺めていた
けがれもないままに〜……か。