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映画『狂った一頁』と小説『たんぽぽ』

川端康成脚本の映画に『狂った一頁』というものがある。

これは1926年の映画なので、大体1世紀前の映画になるが、サイレント映画でもちろんモノクロームである。

昨年に、アマゾンプライムでも観られるようになって話題になった。今ならば、某動画サイトなら観ることが出来る。

一事が万事こんな感じだから怖いよ。

キネマに憧れる小説家は多く、谷崎潤一郎も一時期映画作りに精を出していた。
この『狂った一頁』は川端康成の脚本であり、彼の友人の横光利一も関わった、所謂、新感覚派の映画である。だが、代作という説も聞いたことがある。
新感覚派というと

今作では精神病院を舞台にしていて、台詞がないため、映画を観ただけではどのような内容かわからない。
要約すると、主人公の男の妻は、自分のDVが原因で苦しみ、子供まで亡くして精神を病んでしまう。男は罪滅ぼしのため病院の小間使となって働いているうちに、異常な妄想と現実の混濁した世界を彷徨うことになる……的な映画であり、完全にホラー映画のそれである。
60分間『呪いのビデオ』が続くといえばどのような内容かおわかり頂けると思う。とても怖いので、観るのには注意は必要だ。
今作は、オリジナル版は存在しておらず、見つかったバージョンに監督自ら編集、そして音楽をつけたものが現存しているのだが、その音楽が一定のリズムで流れ続け、余計に怖くなっている。
この音楽の感じが、あの名作サウンドノベル、『街-運命の交差点-』における『シュレディンガーの手』編を彷彿とさせて、また怖い。


精神病院、と言えば、ある種小説家、耽美派などにおいては十八番とも呼べるのかもしれない。

それは、作家そのものがある意味、気○いに近い精神の薄弱があるからだが、川端康成も代表作の『雪国』の葉子も、また、最後に『この娘、気がちがってるわ』と言われるし、何よりも最後の長編『たんぽぽ』は、精神病院が舞台である。

この作品では、架空の病気である人体欠視症なる病に罹ったヒロインがその病院に入院しており、彼女の母親、そして彼女の婚約者フィアンセの青年の語りで物語が構成される。会話が多く、戯曲的ですらあるが、その二人の会話に回想の彼女が入り交じり、異様な世界観を形成している。白いたんぽぽが咲く川べりのその病院で、魔界が醸成されていく。
『たんぽぽ』は未完の作品だが、傑作である。これは、YASUNARIベスト5に入る、個人的には。(あとは『東京の人』、『雪国』、『隅田川』、『山の音』かなぁ…)

『仏界入易、魔界入難』と、この病院の主的な西山老人が筆で書き続けているシーンが出てくる。西山老人は眼が白濁としていて、ラジオのお天気お姉さんのナレーションに心を癒やされている。

川端康成は、『舞姫』からこの一休禅師の言葉をやたら使用するようになり(小谷野敦はそれが安っぽいと批判していた)、『舞姫』では床の間に掛かった軸を娘とその父が見るシーンだったが、『みづうみ』、『東京の人』、『美しさと哀しみと』、『眠れる美女』、『千羽鶴』、『山の音』、『片腕』、『たんぽぽ』は特に魔界康成の作品で、美と虚無が同居している。

いや、虚無的な、所謂、末期まつごの眼こそが、川端的な美的ものを見透かすために必要な視線であり、生命の美しさ、女の肉体の美しさ、つまりは自然と藝術の肉感というのは、虚無的な、何もない状態でこそ姿を晒すものであり、それは『雪国』における島村のいうところの、結局の所『人生の徒労』である。彼が秋の宿屋で、神の視点で視た畳の上で死にかけている蛾の持つ無意味さこそが、逆説的に美しさを引き出すことに他ならない。死と美が同質のものであることを、島村=川端は気付いている。

で、この中絶した最後の長編が『たんぽぽ』であることが、ある種一貫した川端康成の虚無、そして孤独が見て取れて、重要である。

絶筆は住吉連作と言われる三部作からの十数年後の新作、まさかの四本目『隅田川』であるが、彼はそこで、「今は昔となりました。」と、感傷とは決定的に異なった諦観で物語を締めくくっていて、どこまでも虚無的である。


一六歳で天涯孤独となり、愛した永遠女性である伊藤初代からは拒絶され、十数年後に彼女に金の無心をされるが、然し、その際に、彼女から輝きが失せたことに落胆し、それでも亡くなった際には随筆で触れるほど気にしている。妻の秀子との間の一子も、産まれる前に逝ってしまった。
欲しいもの、欲しい女性は全て手のひらから逃げていったのが康成である。

『狂った一頁』は川端康成26歳の時の作品である。『たんぽぽ』は64歳〜68歳頃までに作品なので、つまりは40年間近く、魔界というものに固執してきており、その不気味で異様な世界をペンで研ぎ続けてきた。

作品というのは繰り返しであり、基本的には人間は同じものを書き続ける。
新しい挑戦、慣れぬテーマで成功することは極稀であり、谷崎も『女』と『倒錯』、『マゾヒズム』などを書き続けてきて、それが『春琴抄』などでついに極まるわけで、モティーフは変えても、テーマというものは作者そのものであり、作者の人格であり、これは逃げることの出来ないもので、それを書くのが作家の宿痾しゅくあである。

無論、『狂った一頁』は監督である衣笠貞之助や、協力者の横光利一も多分に関わっているし、今作の脚本は映画完成後に書かれているので、当初から川端康成のイメージだけで作成されたわけではない。

然し、今作でもアヴァンギャルドな女性のダンスから物語が幕を開けるわけだが、ダンスといえば、『舞姫』であり、『花のワルツ』である。


川端康成は、『舞姫』において、ワーツラフ・ニジンスキーについてページを割いて言及している。ニジンスキーはなぜ狂ったのか。ニジンスキーはロシアバレエ団、セルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュスの花形バレエダンサーだったが、彼は今作に登場するような道化めいた『ペトルーシュカ』を踊り、そして、何時しか精神が壊れていった。まさに、魔に内面が取り込まれていき、それは、『ニジンスキーの手記』に詳しいが、川端はニジンスキーに何かシンパシーを感じていたようだ。

そして、この『狂った一頁』の導入部、大雨の風景、このモノクロの雨の光景、稲光は、霧こそないけれども、傑作短編『片腕』の匂いに満ちている。あの、湿り気で構成された世界が、今作には確実に存在している。いわば、どちらの作品も濡れたように湿っている。

1926年、この時点で、康成は既にYASUNARI的世界観である、魔界に既に潜んでいた。いや、康成は、初めから魔界の文学を書き続けていた。それは、魔界というものが膜一枚隔てた隣り合わせにあることを見抜く目を、彼が持っていたことに尽きる。『伊豆の踊り子』の牧歌的な旅の最中に訪れる、「この村、よそ者入るべからず」の立て札の切れ味、『古都』における、バスで警察に連れて行かれる手錠をされた男の異様さ。
美しい娘がそこにはいて、美しい景色がそこにはあって、然し、魔界的なるものが急に顔を覗かせる。

川端康成は日本の華鳥風月的なるものを叙情的に書き出してノーベル賞を受賞したが、私的には、川端康成が真に日本的な作家だったからだと思っている。
真に日本的とは、要はオタクである。彼がキモオタであり、美少女と日本の花鳥風月なる美との連結に成功させたからである。
彼は女性を愛するオタクであり、アイドルを愛する男であり、いつまでも美少女を追い求めていた究極のオタクである。
彼は、美少女という媒体を追い求めた。
女性を書く、というのは商業誌における小説において不可欠の要素である。然し、康成は女性を書く、とは言ってもそれはあくまでもカリカチュアされた、どこまでも康成の求める女性像たちである。

『山の音』におけるヒロインの菊子にしろ、『千羽鶴』の太田夫人とその娘の文子も(そういえば、原田マハの『異邦人』は『古都』に加えて『千羽鶴』も影響がありそう。母娘丼があるからね…)、そして『虹いくたび』の三姉妹も、全て康成のオブジェになっている。彼の愛玩しやすいように、創られた人形である。

住吉連作の2作目『しぐれ』では顔を同じくとした双生児の娼婦と友人を交えて乱交するのだが、それは顔が混じり合う、どちらがどちらかわからないセックスの倒錯であり、完全に心は魔界の人である。
『山の音』では息子が外で別の女を囲って、そこで学んだ性技で菊子を感じさせたことを、菊子の声が変わったことで気づく。変態である。

声、というのは重要で、康成は声に取り憑かれている。『雪国』の葉子は哀しいほどに美しい声をしていて、『みづうみ』の銀平は冒頭、トルコ風呂の湯女の声に天上を感じる。そして、『たんぽぽ』の西山老人は前述したように、お天気お姉さんの声を愛している……。

康成は、声オタである。実は、声優ヲタだったのである……。というのは冗談だが、カジノ・フォーリーで会いに行けるアイドルに入れ込んでいたりと、あながち間違いでもない。

孤独、こそが彼を死に至らしめたように思えるが、然し、彼は不思議なほどに26歳の頃の『狂った一頁』という作品と通底した作品を作り続けている。

ちなみに、個人的には康成のアヴァンギャルド小説ならば、やはり『浅草紅団』をおすすめしたい。表現の新感覚釣瓶撃ち、かつ懐かしい浅草(無論、識る由もないけれども)が、小説の中にモダンに立ち上がっている。




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