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星よりもきれい 壁に貼られたヘルムート・バーガー


美少年は夏の朝の薔薇だ

どちらからも詩の香りがする

お父さんは枯れた薔薇 

稚き息子は大輪の薔薇

星よりもきれい 壁に貼られたヘルムート・バーガー


息子の家庭教師としてやってきた青年は、美しい緑青ろくしょうの瞳をしていた。
彼はプライヴェートでは詩を書いていて、蝶を採集しているのだと、面接の時に、そう語った。独身で、まだ25歳だった。
「詩では食べていけないだろう。」
「ええ。ですから、家庭教師の仕事を。」
微笑んだ彼は、女にも見えた。仕草しぐさがそう思わせた。彼は、面接の最後に、スーツのポケットから折畳んだ紙片しへんを取り出すと、その中に折り畳まれた詩篇しへんを読み始めた。
詩の朗読なんて初めて聞いたから、それが思いの外激しいものに私は驚かされた。
紫のシャツ、ピンクのネクタイとが、彼が喋るたびに匂った。どこの香水だろうか?
私が煙草を取り出すと、彼はさっと燐寸マッチを擦った。揺らめく火の中に彼は精霊のようだった。酒姫サーキィ、という言葉が思い出された。
「吸うかい?」
彼は煙草を受け取りそれを咥えると、もう1本燐寸マッチを擦って、火をつけた。たちまち、また精霊が現れた。
「彼はいくつでしたっけ?」
「四つだ。」
「まだ家庭教師をつける年でもありませんね。」
「早いうちから学ばせたい。なんでもだ。君の担当は語学、文学。羅甸語は?」
「完璧に。でも難しい言語ですし、彼はまずは母国語を吸収すべき時期ですよ。」
「外国語以外に、何か教えられることはあるか?」
「蝶々ですね。」
「趣味の?」
「ええ。」
「高貴な趣味だね。」
「ええ。こうね、忍んでいきます、獲物を見つけたらね。大抵、彼らは気に入りの水飲み場にいる。それを僕らは前もって知っている。そうして、見つけたらそっと忍んで、忍んで、捕まえる。」
「標本にするのか?」
「ええ。展翅てんしするときが一番好きだ。ああ、標本にするために、はねを広げてピンで留めるんです。蝶々を標本にするには、きれいな時に殺さないといけません。綺麗に羽ばたいていたのを捕まえて、そこでそっと、心臓を潰すんです。指先で。それから三角紙に入れて持ち帰る。はねが綺麗なのは、死んですぐの姿を残すからだ。そのまま放っておけば、もちろん腐ります。でも、きちんと処理すれば、きれいなままの姿で残す事ができる。」
彼は人差し指と親指とで何かをゆっくりと挟むジェスチャーをしてみせた。その何かが潰れた。
「残酷な遊びだね。」
「ええ。とても。でも、残酷なことでもしないと、美しいものは滅びるでしょう。」
彼はそう言うと、煙草の煙を吐いた。
「最近は昆虫の図鑑をよく読んでいるよ。」
「それならなおさら。」

私は庭先で息子と遊ぶ彼を観ていた。彼は息子の心を掴んだようで、楽しそうな笑顔が弾んでいる。
年甲斐もなく、心が揺れるのを感じた。嫉妬、羨望、そのどちらでもあるようだった。
私はソファに座り、机の上に置かれた写真立ての中で笑う息子の顔を見つめた。彼は妻によく似ていたが、然し、私の特徴の中にそれらはあった。
「なんとも知れない……。」

料亭に電話を入れて、車を呼んだ。そうして、彼らを連れて、料亭へと向かう。彼の緑青ろくしょうの目は夜の明かりを反射して、きらきらきらきらとしていた。そうして、息子は疲れているのか私の腕にもたれかかり眠っている。

この海沿いの老舗料亭で私達は常連だった。勝手元の地下室から家族で舟に乗り、沖まで出てたくさんのお重を食べる。特別な日の習わしだった。
揺れる舟の上、息子が私の腕の中で目を覚ました。うなじからつむじにかけて、私の若い頃そのままだった。彼を抱きかかえると、詩の匂いがしましたでしょう、そう、息子の家庭教師は嬉しそうに父親の私に言った。


ヴェニスに死すは地獄に堕ちた勇者ども
熊座の淡き星影に
胸を焦がすは家族の肖像なりけり

先日、久方ぶりにルキーノ・ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』を観ながら、この映画詩を評していた淀川長治の言葉が思い出された。彼はこの映画を愛していて、その評は一節の詩だった。


さて、『ヴェニスに死す』はトーマス・マンの小説が原作であり、ルキーノ・ヴィスコンティは彼の『魔の山』の映画化、さらにはマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の一場面を映画化したいと熱望していた。

その彼の念願の企画の一つのわけだが、映画ではダーク・ボガード演じる音楽家のアッシェンバッハがヴェニスのホテルで美しい少年と出会い、一方的に憧憬を持って見つめ続け、その美少年をきっかけとして、彼の精神において自然の美と人口の美との芸術論が闘わされつつ(対立する藝術論そのものの化身として彼の友人が顕現される)、最終的にはコレラが蔓延まんえんし始めるヴェニスという都市と同様に死んでいく。ヴェニスは朽ちていく退廃の都である。
アッシェンバッハは顔に化粧を施してもらい、その少年の美を求めながら息絶える。美少年はそのような壮年男性の心持ちなど知りもしない。
そのような話である

画面の全てが端正に、計画的に構成されている。少年愛(自己愛)を求める物語は一遍の詩である。台詞は削ぎ落とされていて、会話は極端に少ない。タッジオとアッシェンバッハは会話を交わすこともない。

アッシェンバッハは、美少年タッジオに恋い焦がれて乙女のようになるが、まぁ、無論ゲイではない。彼には妻子もいるし(娘は死んでしまったことが仄めかされる)、まぁ、バイセクシャルではあるかもしれないが、もっと形而上けいじじょう的なこと、つまりは美、そのものに恋い焦がれている。

死化粧でもあり、自身の若かりし頃の美しさを取り戻すための化粧。それは、自身を理想を仮託した美少年への接近と、彼との邂逅において恥ずかしくないための正装でもある。誰だって、気になった美しい友人にはきれいに見られたいものだ。

稲垣足穂の随筆『美のはかなさ』はオスカー・ベッカーの著作を翻案した(写して自分のテイストを入れる、タルホ流の創作法の一作品)だが、美のはかなさ、すなわち、美の壊れやすさ、美、というものが一瞬の、先端の、今このときにしかないものであること、このはかなさこそが美であり、彼が言うところの、「雨の日の窓硝子の下で死に逝く蛾」のような、はかないはかないものでなければならない。

だから美少年である。美少年とはお月さまと同様に、15歳を盛に欠けていく。タッジオは12歳〜13歳ほど。今が盛りで、数年後には欠けていく。今このときの美しさをアッシェンバッハは見出して、そこに自分を見るのである。

ナルシシズム。つまりは、美とは概念であり、時間であり、花の美しさ、少年の美しさは、宿る時が限られて、それが終わると別の場所で花開く。これもまたタルホの言葉を借りるのならば、『美少年は夏の一日』だ。
かつてはアッシェンバッハも咲いていた時期があって、その頃を求める心が今作では描かれている。
ありし日の自分いとけなき頃の自分。それが美少年なのだ。

美少年は詩そのものである。
詩とは何か。詩とは郷愁である。詩とは懐かしさである。

「三島の書くものには懐かしいものが一つもない。」

タルホの三島をくさした言葉だが、三島由紀夫は同性愛者であるが、彼はそれを公の活動では喧伝せずに、然し、同性愛の同人誌『アドニス』などに寄稿などしていた。『愛の処刑』などがそれにあたる。
三島が自身を偽っていたのは大なり小なりあるだろうが、自分を偽る、というのは郷愁から最も隔ててしまうことである。

さて、今、私はつたない訳文でイギリス人作家のフレデリック・ロルフの『THE DESIRE AND PURSUIT OF THE WHOLE』をnoteにて勝手に翻訳連載している(パブリックドメインなので)が、このロルフこそが、トーマス・マンの『ヴェニスに死す』のアッシェンバッハのモデルである、という説がある。

妻に先立たれたトーマス・マンが、1911年にヴェニスにてポーランド人の美少年にお熱になったことが物語の着想である。この現実に、ロルフというモデルが加わり、マンの小説に心酔するバイセクシャルのヴィスコンティによって、淀川長治曰くのヴェニスでの美への最敬礼が結実した。

1913年に亡くなるまでの数年間、ロルフはヴェニスに住み、美少年を愛しながら窮乏して、まさしく『ヴェニスに死す』ことになった。
彼の作品、『THE DESIRE AND PURSUIT OF THE WHOLE』は彼のヴェニスでの自伝に両性具有的な少女、少年の形代かたしろをもった少女エルメネジルド・ファリエルを登場させて、愛の成就までを描いている。
この少女は、ロルフの『トトの語った物語』のトトのモデルになった少年がリイマージュされているのだという。
その他に、彼がイギリス、ヴェニスで出会ってきた少年たち、その混成、混声。

エルメネジルド・ファリエルは美少年である少女。

異性愛、同性愛、それらとは異なる、自己愛。それが詩である。詩はナルシシズムにより生まれて、ナルシシズムこそが詩なのである。
そして、そのナルシシズムは、失われた時を求めてこそ、藝術として顕現される。

ヴィスコンティは本当のイタリア貴族だった。何世紀にも渡っての、やんごとなき血筋の人間だ。
13歳の頃、美しい少年だった。それは、『ヴェニスに死す』のタッジオと重なる。彼は賢しく美しかった。
彼は両性愛者で、アラン・ドロンなどを寵愛して、愛し合ったのはオーストリアの俳優、ヘルムート・バーガーだった。
ヘルムート・バーガーはヴィスコンティの映画でこそデカダンスの匂いを放つ、退廃デカダンス詩神ミューズとして跳躍し、彼のパートナーとなった。彼もまたバイセクシャルだった。
そして、ロルフもまた、19世紀末、デカダンスの文学者だった。

13歳のヴィスコンティ。美しかった自分への憧憬は理想の形代である息子や美少年、美青年に宿り、それが藝術となる。

薔薇を手折り、花瓶にさすと、陽の光の中きらきらと輝く。けれども、それは美が抜け出してしまうと、たちまちに黒ずみ、死を迎えてしまう。

けれども、花の美しさは普遍で、またどこかで咲いては蝶を惑わせる。

美少年へ自身を仮託する。或いは、息子に自分を重ねるお父さん。お父さんの恋人はいつも息子であり、それは花嫁なのだ。

ヴィスコンティにはヘルムート・バーガーは恋人で、息子で、自分だった。


ヴェニスに死すは地獄に堕ちた勇者ども
熊座の淡き星影に
胸を焦がすは家族の肖像なりけり











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