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第60回 これからの仏教① 求道か救済か!?

 私はこれまで、「法隆寺貝葉写本」の新規翻訳の結果明らかになった記述内容と、「スッタニパータ」の記述内容との比較検討から、釈尊が実践・成就した「悟り」と弟子達に伝授した「教え」の復元を試みてきました。

 その結果は、恐らく、仏教者・仏教徒を自認する人々に、すんなり受け入れられることはないと思います。

 2500年の長きに渡り、言葉(思想、経典)・儀式(祭礼、葬儀)・習俗(法事、法要)・遺物(遺骨、位牌、墓)として現行仏教が築き上げ伝承してきた意識・習慣・行動を、一朝一夕に変えることは至難の業だからです。

 拙著「般若心経VSサンスクリット原文」で明らかにした、般若心経のサンスクリット原文「法隆寺貝葉写本」の記述内容は、既存の全ての般若心経解説・解釈と全く異なっていることを確認・了解してもらうことすら困難を極めます。

 サンスクリット原文を再構成し翻訳し直してみると、釈尊が瞑想修行により成就した「悟り」体験は、臨死状態における神秘体験、退行催眠や脳への電気刺激による不思議体験、LSD等の薬物や音響効果によるトリップ体験、等々と密接に関連した現象であることが明らかになります。

 エビデンス(証拠・根拠)を重視する現代科学では、非物質世界の出来事・現象である「悟り」体験を、再現実験により実証することはできません。
 しかし、上記各種体験に共通して存在するのは意識(心・魂)の体外離脱であることを認めることにより、「悟り」の真相・実態を類推することは可能です。

 本シリーズの第56回『「妙適清浄句是菩薩位」の真意?』でちょっと触れましたが、生命や身体を損なわない方法で何度も体外離脱を実現することは、釈尊の瞑想修行に比べれば、そんなに難しいことではありません。
 特に、青壮年期に実現できる可能性が高い方法です。

 現在の社会情勢の変化を見ていると、葬式仏教と揶揄(やゆ)され人々の離反を招いてきた現行仏教が、徐々に衰退の道をたどるであろうことは間違いありません。

 しかし、釈尊が自らの成道体験に基づき提唱・伝授した「釈尊仏教」は、「人間という存在に対する真理」・「世界という存在に対する真理」・「ニルヴァーナという存在に対する真理」をことごとく解明したものであり、人類共通の生活基盤として末永く輝き続けるものです。

 ただ、「スッタニパータ」や「法隆寺貝葉写本」を精読して私が思うのは、釈尊と同様に若い日々に出家して成道・成仏の道を目指すのは、現在の世の中では現実的ではないのではないかということです。
 経典を読めば、出家修行者=世捨て人のような印象があり、血気盛んな若い時期に挑戦すべきものとは思えません。

 仏典には、五十数億年後に弥勒如来がこの世に現われ人類を救済することが記されており、それまでは、ほぼ全ての人類が輪廻転生を繰り返す運命にあることを示唆しています。

 つまり、この世に登場する人類のほとんどは、より良い来世への転生を望む、在家信者としての道を歩むことが求められているのです。

 そんな背景があるにもかかわらず、いわゆる小乗仏教も大乗仏教も、成道・成仏を求める求道の教えと浄土往生を求める救済の教えが、ごちゃ混ぜになって展開しているように私は感じます。
 成道・成仏が、浄土往生することにより、容易に達成できるかのように教えられ信じられているのです。

 この現状は、「釈尊仏教」を復元する上で決して容認できるものではなく、求道と救済は全く別の道であることを明確にする必要があります。

 後期高齢者になった我が身を振り返って思うのは、さほど努力をしなくても自然に無為・無欲の生活に移行する老年期にこそ、求道のための修行は希求されるべきではないかということです。(成就するかどうかは別として・・・)

 釈尊が提唱した仏教は、人類の生きる指針を示し、より良い来世への転生を目指し、終局には成道・成仏を目指すガイドラインのようなものである、と私は思っています。

 気候変動による異常気象や悲惨な戦争・事件・事故が頻発する中、釈尊が説いた原初の仏教の教えが全世界に広がり、無益な争いのない、平和で住みやすい世の中が一日も早く到来することを願っています。

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