【短編小説】「あちらのお客様からです」って言うもんだから頑張って飲み干してたら、海の上で乾杯することになった
「プレゼンの資料はできてるのね?じゃあ今日はもう帰って。…うん、それは私がやっておくから。」
部下からの電話を切り、カクテルで喉を潤す。
今の私の唯一の安らぎは、仕事終わりにこのバーのカウンターでお酒を嗜むことだけだ。
この春からマネージャーに昇進したのはいいものの、早くも中間管理職の責務の重さに辟易している。
社会に出てから仕事一筋で生きてきて、もう30歳。
寿退社なんて夢のまた夢。私みたいな女は、きっと永遠に働き続けるのだろう。
大学のときから付き合っていた彼氏からも、昨年別れを告げられた。
「仕事とおれ、どっちが大事なんだよ」と、まさか男から言われるとは思わなかった。
バリバリ働くキャリアウーマンに憧れてはいたものの、仕事仕事の毎日の息抜きが、バーで1人でお酒を飲む時間だけだなんて、何とも味気ない人生だななんて思うときもある。
マスターが私の席にお酒を置いた。
そして一言。
「あちらのお客様からです」
マスターの言う“あちら”の方向には、少し小太りの老紳士が私を見て、微笑んでいた。
私もニコッと笑って、お礼を表現する。
私の前に置かれたのは、カクテルの王様『マティーニ』。
透き通った透明なお酒の中に、オリーブが添えられている。
私の大好きなカクテルだ。
こういうのは正直初めてではなかった。
自分で言うのもなんだが、私は世の男性から見たら“美人”に属する方だ。
その美人な女が一人で、バーのカウンターで飲んでいるわけだ。
お酒を奢って口説きたくなる男の気持ちもわかる。
…ただ、ピッチャーで来たのは初めてだ。
今私の前には、マティーニの入ったピッチャーが置かれている。
(え?ピッチャーで奢る?こんなお洒落なバーで、ピッチャーで奢る?)
しかし、老紳士のご厚意には応えなければいけない。
私はなんとかピッチャーに注がれたマティーニを飲み干した。
マスターが空のピッチャーを下げ、
新しいカクテルを置いて一言。
「あちらのお客様からです」
私の前に置かれたカクテルは、『カシスオレンジ』。
無論ピッチャー。
マスターの言う“あちら”の方向には、先ほどの少し小太りの老紳士が私を見て、微笑んでいた。
私もなんとかニコッと笑って、お礼を表現する。
老紳士のご厚意に応えるため、ピッチャーのカシオレを飲み干そうとする。
しかし、甘ったるいカシオレのピッチャーを飲み干すのはかなりきつい。
飲むのに苦戦していると、マスターが私のところに新たなお皿を置いた。
「あちらのお客様からです」
マスターが差し出したのは、腹八分目の唐揚げのかさ増しに使われている、ピンクのせんべいみたいなやつだった。
大衆居酒屋のお通しでよく出される、味のない謎のピンクのせんべいみたいなやつ。
しかも山盛り。
マスターの言う“あちら”の方向には、先ほどの少し小太りの老紳士が私を見て、微笑んでいた。
私も苦笑いで、何とかお礼を表現する。
私は山盛りのピンクせんべいをつまみに、ピッチャーのカシオレを飲み干した。
笑笑かよ。
そして、マスターがお酒を差し出す。
「あちらのお客様からです」
ビールのピッチャーだ。
(…まじ?ここに来てビール?)
私はマスターを睨んだ。
なぜこいつは、疑問を持たない?
お前のおしゃれなバーで、ピッチャー連続で注文されてるんだぞ?
マスターの言う“あちら”の方向には、先ほどの少し小太りの老紳士が私を見て、微笑んでいた。
私は老紳士を強く睨んだ。
私は、ここまで来たら、もう意地で、ピッチャーのビールを飲み干した。
すると、
“パチッパチッパチッ…”
老紳士が拍手をしながら私に近づいて来た。
「素晴らしい…実にいい飲みっぷりだった」
老紳士は満面の笑みで私に話し掛ける。
「実は、あなたを一目見た瞬間に思ったんだ。“きっとこの人は酒に強いだろう”と。ぜひ、私の仲間になってくれないか?」
(酒に強い?仲間?)
何を言っているのか全くわからない。
「実は私、こういうものでして」
老紳士の差し出した名刺を受け取る。
そこには、
“田中海賊団 船長 田中吉成”
と書いてあった。
老紳士は続ける。
「私は、日本で唯一の『海賊』をやっていまして。実は今、女性の船員を探していてですね。海賊といえば“宴会”。酒に強い女性を探していたんです。それで試してみたところ、あなたは非常に酒に強い。私と一緒に、海賊をやりましょう」
謎の連続ピッチャーは、私が海賊に適性があるかどうかを試すための試験だったらしい。
意味不明だ。
ただ、私は、受け取った名刺を捨てることはできなかった。
***
「船長!北北東の方角、島が見えます!」
私は、単眼双眼鏡から目を離し、檣楼から、甲板に立つ船長に声を掛ける。
「うむ!上陸するぞ!!」
田中船長の号令に呼応して、船員達は「おー!!」と一斉に雄叫びを上げた。
私はあの日以来、田中船長の海賊船の船員になった。
味気ない毎日を一変したいという思いからだった。
どんな職場に転職しようと忙しさは変わらないものの、以前のような虚無感に襲われることはなくなった。
なんせ海賊は“自由”だ。
檣楼から降りた私に、田中船長が声を掛けてくれた。
「明子、一杯やらないか?」
田中船長は両手に、ビールがなみなみ注がれたピッチャーを2つ持っていた。
私は、「喜んで」とピッチャーを1つ受け取った。
「あのときバーでお前を誘って本当に良かったよ」
「こちらこそ、お声掛けいただいて、ありがとうございました」
私達は少し照れながら、
「じゃあ新たな島の上陸に・・・乾杯!」
と、お互いのピッチャーをぶつけ合った。
風は南西の風、波は穏やかに、船は進路通りに進んでいた。