思い出す都市計画(下)
田園都市の作り方
都市の構想を考えることは楽しいものです。どこに道路を敷こうか、住民の需要にいかに応えようか、住みやすい街とはどんな形だろうか。シムシティのような都市シミュレーションゲームをやったことがある人なら、その箱庭を愛でることの幸福感や、自分の手が加わったことで自律的に動き出す都市の群体のようなものに対する愛着形成に気付いたことがあるかもしれません。
そういうゲームにおいて、プレイヤーはスタート時にいくらかの資産や力を持っているものです。そして、草原に一本道を引き、電気線と水道を作ると、自然発生的に人が集まり始めるのです。
ゲームは、現実世界で再現できないものがあるからこそ楽しいのだと思います。実際にはゼロから街をつくることなどできないし、自由に道路を敷くこともできない。できないことを疑似的に体験できる万能感に勝るものはなかなか無いでしょう。
ハワードは、できないことを(少なくとも現代において)できるようにしたのです。最終回は、彼が示したその方法について紹介したいと思います。
イノベーター
ハワードのことを形容するとき、都市計画家という肩書を用いるのは相応しくありません。彼は建築に関する専門知識を持ち合わせてはいませんでしたし、行政の人間でもありませんでした。
前回の記事で書いた通り、都市計画のダイアグラムも、その形態的な特徴を表現するために描かれたものではなく、あくまで一例として、都市機能はこういう配置であることが望ましいと万人にわかるよう説明したものに過ぎなかったのです。私には、あのダイアグラムは、彼が「自分は都市計画家ではない」と弁明した形跡のように見えてしまうほどです(だから、そのダイアグラムだけを見て「これは素人の発想だ、彼は都市計画家として粗野だ」などまくしたてる言説を見るととても悲しくなります!)。
彼は田園都市をどのようにゼロから作るか、その方策を練ることに腐心していました。
第1章 「町・いなか」磁石
第2章 田園都市の歳入と、その獲得方法――農業用地
第3章 田園都市の歳入――市街地
第4章 田園都市の歳入――歳出の概観
第5章 田園都市の歳出詳細
第6章 行政管理
第7章 準公共組織――地方ごとの選択肢としての禁酒法改革
第8章 自治体支援作業
第9章 問題点をいくつか検討
第10章 各種提案のユニークな組み合わせ
第11章 道の先にあるもの
第12章 社会都市
第13章 ロンドンの将来
『新訳 明日の田園都市』の章立てを見てもわかる通り、彼は、人とお金の問題を解決することに最大の力を注いでいます。ロンドンや過疎地の荒廃した状況を見て、社会の仕組みをどう良くするか考え、その方法を編み出した彼には、イノベーターという形容こそ相応しいと思うのです(この言葉の当代的な使われ方は好きではありませんが、この言葉以外に適切な表現が見つかりません)。
田園都市の仕組み
先述の著書をもとに図解を作ってみたのですが、ざっくり言うとREIT(Real Estate Investment Trust)みたいなものでしょうか。もちろん田園都市株式会社は上場を意図していない点、利益追求が目的とは言えど基本的にはハワードの理念に共鳴した人が設立するものである点は差がありますが。
実際にレッチワースを保有することになる「第一田園都市株式会社」の設立者は、チョコレート会社「キャドバリー(現:モンデリーズ・インターナショナル・グループ」の創業家出身の経営者であるジョージ・キャドバリーと、石鹸会社「リーバ・ブラザーズ(現:ユニリーバ)」の創業者であるウィリアム・ヘスケス・リーバ卿の二人でした。
二人は、ボーンビルとポート・サテライトという工場村(工場労働者のために住宅や公共施設、娯楽施設などを整備した区域のこと)を建設したことでも有名です。初期の田園都市はこういった篤志家に支えられていました。
田園都市の運営
篤志家の力、さらに言えば集積した資本がなければ実現しえない田園都市でしたが、それでも経済的に成り立つには長い年月を要しました。1903年に発行された30万£分の5%配当制限付株式が満額配当されたのは、レッチワースの人口が1万人を超え、会社設立から20年が経過した1923年のことでした。
第二の田園都市
前回、大都市とその周囲に衛星状に配置された都市群のダイアグラムを紹介しました。
著書第12章には、完成した田園都市のその先の処方箋が記述されています。順調に発展した田園都市が、その人口的キャパシティを迎えたとき、どのように対処するか。開発圧力に負けて周囲の農地を宅地にしていくのか。
彼は、別の土地に新たな田園都市を建設することを解決策として提案します。既存の居住者の利益と新規参入者の利益、その両方を害すことなく有機的に共存共栄していく形が、大都市と衛星都市の関係でした。
レッチワースが軌道に乗り、彼自身も16年住んだその街を離れ、第二の田園都市を作るため、ロンドンにほど近いウェルウィン(Welwyn)へと移り住んでいきました。
サー・ハワード
1928年5月1日、死別した一人目の妻、その後再婚した二人目の妻・4人の子供・9人の孫に恵まれたサー・エベネザーハワードは、ルイ・ドゥ・ソアソンが設計した第二の田園都市ウェルウィンで78年の生涯に幕を閉じました。
著書序文でF・J・オズボーンが彼の人柄について触れている部分を引用し、おわりにしたいと思います。
ハワードの人格は、かれの驚異的な業績を知ってかれに初めて会う人々にとっては絶え間ない驚きだった(原文ママ)。かれは極度に温厚で最も気取りのない人物であり、自分の外見など気にせず、内部に秘めた力の証拠を外に出すことはほとんどなかった。(中略)かれは誰にも好かれ、特に子供たちには人気があった。
参考文献
エベネザー・ハワード著、山形浩生訳(2016)『新訳 明日の田園都市』鹿島出版会
越沢明(2004)『都市をつくった巨匠たち―シティプランナーの横顔』ぎょうせい
ジョナサン・バーネット(2000)『都市デザイン―野望と誤算』鹿島出版会
都市計画、都市デザインなどにまつわることをつらつらと書いていきます。記事の内容の間違いやご意見、ご批判等もお待ちしております。問題があった場合は訂正、削除もします。