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サイゼリヤ論争とか4℃論争とか
もはや定番と化しているこの話題だけど、
何故かまた今、SNS上では4℃論争が勃発しているということを知った。
残念ながら、4℃すらもらったことがない私なのでどんなコメントを寄せても負け犬感が拭えないのだが、
なんだかやけに考えさせられるコメントを見つけた。
(いいねとかしなかったのと、さっき検索しても見つからなかったので一言一句合ってるわけではないんだけれど、)
サイゼリヤでデートして、
クリスマスには4℃をもらって、
プロポーズは自宅で、
結婚式は挙げないでフォトウェディングで済ませて、新婚旅行は近場の沖縄で…
そんな人生で本当に幸せなのかな?
…こんな感じの内容だったと思う。
私はこのコメントにハッとしてしまった。
…それで本当に幸せなんだろうか。
このコメントに対する返信としては、
「私はそれでも幸せです」
「それ以上のことをしてもらえる価値があなたにはあるの?」
「それでも幸せだと思える人と結婚するんじゃないの?」
みたいなものがあったと思う。
もし私がそういう人生を送るんだとしたら…
と想像してみたところ、
率直に私は、幸せじゃないなと思った。
都会に染まってしまったってことなんだろうか。
なんというかこの手の話題は論点がたくさんあって、
そもそも「サイゼリヤでデート」というのは、
初対面でのことなのか、
付き合いたてのことなのか、
普段のデートの中の一つとしてなのか。
…そういった前提をどこに置くかで答えは全く変わってくると思う。
もちろん、「好きな人とであれば何だって楽しい」という価値観は私にだって備わっているけれど、
好きな人との大切な思い出になるからこそ、
特別な日にはちょっと贅沢をしたい、と思ってしまう。
ここまでは、きっとどの男性も女性もあまり変わらないんじゃないかな、この気持ちは。
ただ問題は、その「ちょっとの贅沢」の基準の個人差が大きくなってきてしまっていることだよね。
大好きな彼女に喜んで欲しいけれど、高級レストランに連れて行く収入なんてないから、
サイゼリヤでも喜んでくれる彼女がいい、
ということなのであれば、
私は、これらの意見を持つ男性を責められないなと思う。
だって今の世代が貧困化してることは事実だし、
みんながみんな努力で勝ち上がれる社会でもないから。
決して、サイゼや4℃許容派の男性陣が
「俺はいくらでもお金あるけど、恋人になんてサイゼくらいのお金しか使いたくねーよ!」
という気持ちではないと信じたい。
自分たちが子供の頃に見ていた親世代の恋愛観・結婚観の金銭感覚で育ってきたのに、
いざ自分がその世代になったらこの国の経済は到底その時代の文化を維持できるレベルではなかった、
という感覚は私にも痛いほどわかるからこそ、言葉に詰まる。
という一方で、
女性の立場になれば、
サイゼリヤで満足してくれ?
4℃で満足してくれ?
そんなの嫌!
という気持ちも痛いほどよくわかる。
サイゼや4℃否定派の女性陣がどんな気持ちかはわからないけれど、
自論としては、
「こんなに長きにわたって論争を生んでるものをあえて選ぶのか?」
という、その自分に対する“雑な扱い”にがっかりする。
本当にそれで相手が喜ぶと思ったのか?
ただプレゼントすればいいだけだと思ってないか?
とか、嫌なことを考えてしまうわけですこの私は。
結局はお金の問題じゃないのよね。
もやもやするのは、その配慮のなさなんだよね。
クリスマスだからプレゼントしよう!
プレゼントと言ったら4℃のネックレスかな?
だけどこれは好みが分かれるみたいだから、
彼女が好きなブランドや好きな系統を探してみよう。
…となってくれたら、たとえそれが100円の指輪だったとしても、私は嬉しいと思う。
自分のことを考えてくれた時間に、
自分のために悩んでくれた時間に、
そこに特別さを感じる。
女は感情で動く生き物、と嫌味に言われたりもするけれど、
女は金で動く生き物、なんて真逆のことを言われたりもして、
なんだかまあ世の中の女性観ってそれほど適当なんだなと思うんだけれど…
話は戻りまして、
サイゼリヤでデートして、
クリスマスには4℃をもらって、
プロポーズは自宅で、
結婚式は挙げないでフォトウェディングで済ませて、新婚旅行は近場の沖縄で…
では、何故幸せじゃないのかっていうところなんだけど。
なんでだろうね、夢がないからなのかな…
そんな特別な日すら贅沢をできないなんて、
私は何のために毎日働いてお金を稼いでるんだろう…と思ってしまう。
全部妥協する人生、きっと私は満足できないだろうな。
嫌な奴だと思われるかもしれないけれど、
それなら私、そういう人生になるくらいなら私、
一人で生きていくと思う。
私の方が、私のことを幸せにしてあげられるな、って思っちゃうと思う。
なんだろうね、私はネットの男性に叩かれるタイプの思想の持ち主なのかな。
そもそも恋人に自分を幸せにしてもらおうだなんておこがましい考えなのかもしれないけど、
それがおこがましいとわかってるからこそ、
あなたにそれができないなら私のことは私が幸せにするわ、という発想になるわけで…
こういう女性、現代の、特に東京にはたくさんいるんだろうなあ。
女性としてはありがたくもありますよ、
家庭に入って子供を産んで夫に家計を支えてもらうことが幸せだったとされる時代に比べたら、
自分のことは自分で自由に幸せにできる
(=女性が独り身でも良く、女性が会社で働いても良く、女性が自分のお金を自分に使っても良い)
世の中になったことは、とてもありがたい。
多様性の時代だけど、きっと「幸せ」も多様性の時代なんだろうな。
よく言えば多様性、悪く言えばただの「貧富の差」でもあるかもしれない。
たくさんの情報が手に入る世の中になったからこそ、
幸せの定義は人それぞれで…
だからこそ、そんな中で、
諦めのテンプレートとも取れる、
“サイゼリヤでデートして、
クリスマスには4℃をもらって、
プロポーズは自宅で、
結婚式は挙げないでフォトウェディングで済ませて、新婚旅行は近場の沖縄で…”
…では幸せになれないんだろうな、私。
いつも自炊で、だけどプレゼントにはブルガリで…
が幸せな人もいれば、
プレゼントはいらないけれど、盛大なプロポーズで…
が幸せな人もいるわけで、
そのあたりの意見交換というか対話というかコミュニケーションを大切にしてくれる人と一緒になりたいよね。
誰も悪くない、誰も悪くないけど、
貧困の時代であることは事実で、
女性が一人で生きていけることも事実で、
それでもやっぱり幸せにしたいと思える人がいて、
幸せにしてもらいたいと思う人がいて、
つまり、
ゼクシィの
「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、
私は、あなたと結婚したいのです」
というキャッチコピーは神!