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読書の秋、芸術の秋、オーバードーズの秋

*この記事はオーバードーズを推奨するものではありません。

秋という季節は、何かしら人の心に深い影を落とす。夏の喧騒と熱狂が過ぎ去り、燃え上がる太陽は次第に遠ざかっていき、猛暑は静かに息をを潜める。人々は一抹の寂しさを覚え、次第に自己の内面へと意識を向け始める。そうして、センチメンタルを拗らせた私は、オーバードーズに走った。心地よい風が吹き抜ける日であった。

最近、テレビやラジオで「オーバードーズ」という言葉を以前よりも頻繁に聞くようになった。どうやら、若者による市販薬の過剰摂取が、大きな社会問題となっているらしい。

自慢ではないが、私は、一般的にオーバードーズに使用されるような市販薬は、全て試したことがある。ブロン、メジコン、パブロン、レスタミン…etc あげ出せばキリがないが、ほとんど一通り試したと言っても過言ではない。オーバードーズは、私にとって、現実逃避であり、自傷行為であり、同時に自己肯定でもあった。私はオーバードーズをする自分を好いていた。

通院を開始してからは、オーバードーズは禁じていた。というよりは、病院から処方される薬で、全て事足りていたため、必然的にしなくなっていたという方が正しい。

しかし、それはある日、突然現れた。なんの前触れもなく現れたのだ。

私がバルコニーへ出たとき、外界はすでに夏の気配を消失しており、涼しい風が肌を撫でた。空は鮮やかな甘橙色に染まっていた。その光景は、時が止まったかのように静謐で、私の心の奥底に隠れていた憂鬱を呼び覚ました。

私はいてもたってもいられなくなり、ブロンを一壜、ウイスキーで無理やり胃に流し込んだ。

….. 。

そこには、いつものような心地良さはなく、ただ地獄があった。以前には感じたことのない、大きな罪悪感が私を襲った。自傷や世間へ対するそれではない。私のことを見守ってくれている、医師や友人、親に対する裏切りである。たまらなく不安になり、慌てて家を飛び出し、歩いて海へ向かった。私の悲痛は、波でさえも飲み込みきれなかった。

翌日、薬が抜けないまま、半昏睡状態で病院へ向かった。問診に入る前に、私は、先生に全てを告白した。そして、ごめんなさい、と言った。

先生は優しかった。怒ることもなく、ただ、つらかっただろう、と私に言った。その優しさが苦しくて、私は思わず、涙をこぼした。

その日、私はもう二度と、オーバードーズはしないと、固く誓った。この身は、いまや自分だけのものではない。多くの人間が、私の身を案じ、手を差し伸べてくれている。

自分と、現実と、全てと、向き合って生きるのだ。意味なんてことは考えてはいけない。踊るんだよ、音楽の続く限り。



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