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人はどんなときに“怒る”のか

 この辺境の記事に訪れた読者各位に改めて深いお礼を申し上げたい。
 さて、ここに訪れた読者各位がどのようにしてこの記事にアクセスしたかは疑問であるが、いつかの記事と同じように、表題に従って戯言じみた文章を「エッセイ」とキレイな呼び方をして綴っていく。

 さて、今回の表題である「人はどんなときに“怒る”のか」ということだが、どこかの新書のタイトルのようなものだが、当然ながらこの記事は、特定の文献に基づくエビデンスを列挙するものでも、当該学問の学習を積んだ者が書いているわけでもない、純度の高い「素人主張」である。
 そのため、わざわざ読んでくださった読者各位にこのようなことを断言するのは憚られるが、この記事を鵜呑みにするのは好ましい結果につながらないだろう。

 大切なのは、この記事の中でなにか一つでも「自分自身で納得できる」と思えるものを見つけ、自らの思考へと昇華することが、この記事唯一の価値になると、私は考えている。

 この記事における前置きは以上にして、早速表題に移っていこう。

 まずこの表題「怒り」であるが、読者各位はどのようなときに怒りを感じるだろうか。アンガーマネジメントなる言葉が誕生し、その激情をコントロールするノウハウが書籍の世界でも、インターネットの世界でも有り触れているのは驚きの事実であるが、深く「怒り」について考えてみると、それはある意味必然かもしれない。

 「怒り」は、およそ喜怒哀楽の中でも特筆して厄介かつ強い気持ちである。あらゆる犯罪の根源が「怒り」であると言われれば納得する人も多いだろう。逆に他の、「喜び」「哀しみ」「楽しい」などの気持ちで犯罪を行ったとなれば、より狂気的な印象を受けることだろう。
 一般的なアンガーマネジメントでは、およそ「怒り」は持続性に乏しく、6秒ほど頂点が続いた後に急速に衰えるらしい。これについては勿論原典がないため、ここでは「怒りはあまり持続しない」程度の認識で十分だろう。

 完全な余談であるが、私は小説の中でこの「怒り」についての扱いは難しいと考えている。それはこの持続性のなさであり、「怒りによる復讐」というプロットを作る際、この持続性のなさをどうカバーするか、という部分を核として物語を作っている。

 話を戻して、「怒り」はどうしてこのような特性があるのだろうか。急激かつ急速に衰えていく激情。喜怒哀楽のなかで「怒り」以外の気持ちは、少し強引に考えてみても、「怒り」よりも持続する気持ちに思える。
 ここで具体例を3つ上げてみよう。どれも、ここ最近私が感じた怒りのエピソードを再構成したものであり、実際のものとは少し異なるものである。

 第1に、私は買い物をしている。そこは人気の店であり、いつも多くの行列が視界の先まで聳え立っていて、私もその中へと入っていき、末端のところに立ち尽くしている。
 そんな最中、一人の定員が私に駆け寄ってきて、「そこに並ばないでください! まずは整理券を受け取って、次に指示に従って並んでください」と叫び、強引に私を一度列から引き剥がして、苛立った調子で私の顔を一瞥する。
 私は自身の「怒り」とともに、相手の「怒り」も同時に見た。

 第2に、私は職場で皿を洗っている。私の職場では別にメインの仕事があり、スキマ時間を利用して皿洗いをするような状況になるため、メインの現場との折り合いが重要になる。私はある程度メインの現場に人がいることを確認し、後々に残しておくと厄介になる皿洗いを先にした。
 すると、私とほぼ同期の人物が「そんなこと今しなくていいから」と語気を強めて言ってくる。正直なところ、現場にある程度人が足りているのだから、私は皿洗いを優先したい気持ちもあったが、あまりの剣幕だったこともあり、渋々皿をおいた。

 第3に、私はとあるサイトに小説を投稿した。私の中では傑作のタイトルがつけられたと思っていたが、見事見事にアクセス数は伸びず、悲しみの中に茫漠とした怒りが沸々とこみ上げてくきた。


 最後の例は完全な私情であるとして、他の例は私と同様の「怒り」を感じたと思う人もいるだろう。そして最後の例は、この手の界隈では毎日山のようにあることである、と思っている。
 これらすべての「怒り」に共通しているもの。ココ最近になるまでそれに着目したことはなかった。なぜなら「怒り」が生じてから、それが煮えくり返って、そして心からそれを消え失せて憎しみへと変わっていく。

 では、私が思った「怒り」の共通点。それは、「自分自身が正しい」という思い込みにあると、私は思う。
 第1の例から考えてみよう。私は行列に並ぶという行動を自分で考えて行い、世間一般とその場の状況を並べて「これが正しい行動だ」と判断してそれを行った。しかし実際には、整理券を配って列が管理されていたため、店員はそのルールに基づいて、私に詰め寄った。これも、ルールと言う一つの正しさによって、「怒り」を覚えた。
 第2の例ではまさにこの話そのものであろう。私は現場の状況と人手を判断して、後々の仕事を効率化するために皿を洗った。それは間違いなく「自分自身の判断が正しい」と思っていたからこそであろう。しかし同期は、現場の状況を私よりも多めに見積もっていて、後にできる仕事をしていた私に怒りを顕にした。それは、同じく「自分自身の判断が正しい」という思い込みから、生じたものであろう。
 第3の例はまったくもって身勝手で独りよがりであることは間違いないが、自分自身のセンスを「素晴らしい」と思い込み、それが世間に認められないことへの「怒り」が生じたことになる。

 正直ながら第3の例は、これらの一例にはならないかもしれないが、「自分は正しい、自分は素晴らしい」というある種の妄想と周りの齟齬が強烈なズレを生み出し、そして「怒り」という持続性の乏しい気持ちへとなったのだろう。

 つまり、「自分自身を正しい」と思う気持ちそのものが怒りの根源であり、気持ちをコントロールする上で一つの手がかりとなりうるかもしれない、と私はここまでで感じている。

 具体的に言うと、怒りを感じたときに「どうしてこんなに怒りを感じているのか」ということを自問するだけで、持続性の乏しい「怒り」は確実な衰えを生み、最終的には肯定的な状況へと発展するのかもしれない。
 当然ながらこれらの情報は、私がここ最近感じた、考えたことであり、多くのデータに基づくエビデンスを持ったものでも、膨大な知見から訪れた核心的なものでもない。

 これを読んでくれた読者各位が、どのようにこれを解釈するのかは私の知るところではない。「そんなことはない。怒りとはもっと、こういうものだ」と感じる人もいれば、「たしかにそうかも知れない」とか、「納得できる」と感じる人もいるかもしれない。まさに、千差万別であるからこそ、この記事が息づくことになるのであろう。
 読み取られた情報が、その人にとって変化が生じるのであれば、この記事はまさに解釈という価値を持つものとなるだろう。

 もう少し、この記事に盛り込みたい内容が多いのだが、今日においてはこれにて筆を折ることとする。
 仮に、ここまでの文字列にたどり着く方がいれば、改めて深い謝辞を残すこととする。


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