映画「沈黙ーサイレンス」にみる「沈黙」って誰の何のための沈黙なんだろう
予告
https://youtu.be/0cUtOR-DL1A
あらすじ
「沈黙」を観終わりました。まずは今思っていることを書かせて頂きます。
知識が浅いので歴史的観点からの感想は書けません。そして原作も読んでいないので「アメリカの監督が撮った日本を舞台にした映画」というフィルターが自分にかかっていることも否定しません。日本人に「獣のような存在」という表現を使い宣教師たちより劣った存在のように描かれていると思えてしまいました。そして日本を「キリスト教が根付くことのできない沼」と言うのは果たして原作の通りなのだろうかという疑問も禁じ得ませんでした。
私はクリスチャンですが、私の宗教的態度は「自分の内に神の存在をみる」です。例えば自分を愛するように隣人を愛せない時に、私は神の言葉を待つのではなく自分の内にいる神と対話します。ですので私にとって神は「沈黙しない存在」です。
この一本はそんな私にはとても共感できるものでした。おそらく死んでいった多くの農民たちは自分の内にいる神と対話したんだと思います。そして自分が黙らなければ(=棄教し転びにならなければ)多くの人が苦しみ死ぬという宣教師と同じ状況に置かれたら、私は自分の内にいる神とのみ対話し転びを装うと思いました。
この作品のタイトル「沈黙」とは誰の何のための沈黙なんだろう。これからもう少しそれを考えたいと思います。
遠藤周作が伝えたかった「沈黙」とは
遠藤周作の小説のタイトルは確かに「沈黙」です。遠藤周作は元々別のタイトルを考えていたのですが、編集者の意見で「沈黙」になったそうです。そのため、世界的にこの小説のテーマが「なぜ神は沈黙しているのか」と誤解されてしまった、沈黙というタイトルは失敗だったと遠藤周作は語っています。
とても納得しました。私がこの映画から感じたのは答えを求めるものを絶望させる「神の沈黙」ではなく宣教師たち、信者たちがそれぞれの信仰心と向き合う姿と人間の尊厳、そしてそれを貫くための「人の沈黙」です。
遠藤周作は「日向の匂い」とつけたかったようです。確かに「沈黙」の方が売れそうです。でも「日向の匂い」からは穏やかな希望が感じられます。己の信念に忠実だった人がきっと最期に感じるものを表現したかったんだと私は思います。
窪塚洋介が演じたキチジローという存在
映画では窪塚洋介が演ずるキチジローが大きな役割を果たしています。
キチジローは日本にやってきた2名の宣教師(アンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライヴァー)を案内し、時に助ける農民です。ですが彼は家族を裏切って一人だけ生き残った存在です。そして時に宣教師たちを危険な目に遭わせたり、苦しませたりもする存在なのです。
多くの方が同じく感じたでしょうが、キチジローはリアルな男性でなく人間の弱さの象徴です。この弱さを宣教師は許すのだろうか。私はハラハラしながら観ました。
聖書でもイエスの弟子ペテロは絶対に裏切らないと誓ったのに、「鶏が鳴く前に3度、あなたは私を知らないと言う」とイエスが言った通りに裏切ってしまいました。その後に、イエスは後悔して苦しんでいるペテロの心の傷を癒すためにそして赦すために、復活した後「3度私を愛するか」とペテロに聞いたのです。
キチジローはまさにペテロです。これが最後だと言いながら何回も懺悔し、またすぐ罪を犯して懺悔を求めます。宣教師はかろうじて怒りを抑えながら幾度もキチジローの懺悔を聞きます。
人間はこれほどに弱い存在なのか。観た人はキチジローにきっとそう感じたでしょう。でもこれは人間のリアルな姿ではないでしょうか。
沈黙より饒舌、強さより弱さに傾くキチジローを責められる人はいないのではないでしょうか。私は自分の中にキチジローを見出しました。
*余談ですが、キチジローを演ずる窪塚洋介と通訳を演じた浅野忠信は、最初のオーディションで逆の役を与えられたそうです。結果としては映画に見る通り、弱き者の象徴のキチジローを窪塚洋介が、諸々に卒のない幕府の役人を浅野忠信が演じました。このキャスティングは作品が成功した大きな要因だと私は思っています。
「沈黙」が伝えたかったもの
この作品では、様々な登場人物がいろいろな対象に対して沈黙しています。迫害されている農民だけでなく、宣教師たちも迫害に遭いながらギリギリまで沈黙を貫きます。ここにあるのは神の沈黙ではなく信仰を、人間としての自分の尊厳を貫き通すための沈黙です。
観終わって時間が経てば経つほど「沈黙」が意味するものはそれだと思いました。
棄教し江戸の一市民・岡田三右衛門となったアンドリュー・ガーフィールドが演じた宣教師は映画の中では市民となったあと、一言も話しません。ですが彼は「沈黙による神との対話」を続けていたに違いありません。
プロテスタントである私は知らなかったのですが、カトリックでは白百合は聖母マリア、信仰、復活の象徴です。日本の仏花は白菊ですが、岡田三右衛門となった宣教師の棺桶の前には白百合が添えられていました。これは三右衛門の妻が手配したのでしょう。妻も一言も話さず文字通り沈黙したまますべてのシーンを終えます。
マーティン・スコセッシ監督自身がカトリック教徒であることを考えればそこにも意味があると思うのはごく自然なことです。
スコセッシ監督と遠藤周作の「沈黙」が伝えたかったこと
映画では、沈黙の中死んでいった宣教師が手のひらの中に妻からそっとキリスト像を握らされ火葬されます。たとえどんなに禁じられ、沈黙し続けたとしても、人の心の中の自由は誰も縛ることはできない、スコセッシ監督が伝えたかったメッセージはここにあります。
スコセッシ監督は「神の沈黙」を表現したかったのではなく、全く反対の「沈黙の声」を表現したかったんだと思います
これは間違いなく、遠藤周作が伝えたかった「沈黙」と同じものです。
信仰を、人間としての自分の尊厳を貫き通すための沈黙。私も「沈黙」が意味するものはそれだと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。
今日も皆さまが人生の2時間を使う価値のある映画に出会えますように!