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短編小説を読む──芥川龍之介「羅生門」(6)

前回の続き。

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羅生門

第二十六段落

下人は、太刀を鞘(さや)におさめて、その太刀の柄(つか)を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰(にきび)を気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。

芥川龍之介「羅生門」

 下人は第四段落でも面皰を気にしていた。ここで「勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰を気にしながら」とある。「勿論」というほどおなじみではない気もするが、考え事をするときには触る癖があるということなのだろうか。
 さて、下人には「ある勇気」が生まれてしまう。老婆を捉えた時の「あらゆる悪」に対する憎悪からくる勇気と全然反対方向へ動こうとする勇気。
 前段落で老婆は、悪でも許される場合があるという(意味の)話をしていた。具体的には餓死をしないために、蛇を魚と偽って売ったり、死骸から髪の毛を抜いたりするのは、本当は良くないが許される。でも、下人の心もちは「饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた」のだから、言ってみれば悪が許される「条件」というもの自体が無くなってしまう。

第二十七段落

「きっと、そうか。」
 老婆の話が完(おわ)ると、下人は嘲(あざけ)るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰(にきび)から離して、老婆の襟上(えりがみ)をつかみながら、噛みつくようにこう云った。
「では、己(おれ)が引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」

同上

 面皰から手を話したので考え事が終わったようだ。でも、その前にもう念を押しているわけで、結論に対して思考の余韻のようなものを感じる。
 「では」以降のセリフも面白い。さっき「考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた」「饑死」が出戻りしているかのようだが、危機感というよりは老婆に対する嘲り、嫌味として使っているだけのような感じがする。
 あと、「饑死をする体」という表現。随分と直接的というか即物的な感じがある。餓死するのは身体であるということ。

第二十八段落

 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色(ひわだいろ)の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。

同上

 着物を剥ぎ取る、まさに追い剥ぎである。そういえば第二段落で人を「市女笠や揉烏帽子」と人に例えていた。着物を着るのは人間だけだ。それに、老婆は死骸から髪の毛を言ってみれば「剥いでいた」のだが、下人は老婆から服を剥ぎ取ったわけで、もう人間扱いをしてない。しかもこれは、別にしなくても良い行為だから、むしろ人間にのみ対する行為であるとも言える。
 そして景気づけとばかりに、先程はゆっくりと登った梯子を、今回はダッシュ。「夜の底」というのがいい。もう真っ暗って感じがする。

第二十九段落

しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪(しらが)を倒(さかさま)にして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々(こくとうとう)たる夜があるばかりである。

同上

 死骸の中に死んだように倒れているというのは笑えない冗談みたいだ。ここではもはや動物に例えられもしていない。

第三十段落

下人の行方(ゆくえ)は、誰も知らない。

同上

 下人の行方。この一文はしかし少々不自然だ。もともと誰にも注目されていなかった下人ですから、誰も知らないのは当たり前だし、度々登場した「作者」は知っててもいいはずである。行方は場所というよりは、その後ということだろうか。でもこれも同じだ。では、或いはこの一連の出来事を経てどうなったか、ということだろうか。でも、恐らく盗人になったのは確実、というかすでに老婆から着物を盗んでいるわけで、作中ですでに盗人にはなっている。だから、「盗人になった」というジョブチェンジのことではなく、なにかほかのことについて言っているのかもしれない。

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