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今日の読書
赤松利市さんの「ボダ子」読了しました。
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ほぼ実話だと聞いて寒気がしました。障害のある娘さんと父の話と言うには、2人が関わるシーンはほとんどありません。
障害のある娘を心配してると言いながら、自分のやりたい仕事、お金稼ぎ、女遊びに情熱を燃やす父の主観で話は進んでいきます。
作者=父親の言動は、あまりにも救いがないものでした。
バブルのころは会社の社長として順調満帆に金を稼ぎバリバリ働きますが、仕事だけにのめり込み家庭を顧みない生活。
仕事がうまく行かないと、その場しのぎでやり繰りをし、家族を捨て、人を騙し、住むところを変えていく。
放っておいた娘が障害で苦しんでいると、離婚した奥さんに文句を言うが、反論されて何も言えない。
それでも娘のためにと、転々とした生活を娘に強いていく…
読んでいく文面には、言い訳も懺悔も感じませんでした。
ただその時の父親の心情が書かれていく文章からは、弱い一人の男だけがくっきりと浮かび上がってきました。
元奥さんに烈しく罵られて逃げ出し、浮気をして強請られ、職場の作業員たちにピンハネがばれて袋叩きにされ、リストカットを繰り返していたボダ子は…
最後まで読み終えた時に、やるせない気持ちがいっぱいになりました。
赤松さんはどんな気持ちでこれを書いたのだろう?
自分のしてきたことを、思い返し文字にしていくことは、身を切るような行為だったと思います。
し実際に後書きには心療内科に通い、自殺も考えたと書いてあります。
誰かに赦してもらうためでもなく裁いてもらうためでもなく、赤松さん自身が人生を乗り越えるための行為だったのだと思いました。
過去の自分、過去を引きずるこれまでの自分をなくして、新しい自分になるために。
ボダ子という一人の人間がいた事を覚えて行く。それごが、この本を書いた赤松さんが一番願っていることだと思います。