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タワマン文学#6 下北沢

「人間の細胞って7年で入れ替わるんだって」
郁美は文系に似つかわしくないことを言いながら、井の頭公園沿いのカフェでテイクアウトしたカフェラテを一口飲み、カップを夕焼けにかざした。僕はホットコーヒーを左手にもち、手持ち無沙汰な右手をポケットに突っ込んだ。陽が暗くなるほどに肌寒さを感じる季節になっている。僕らはベンチに座って目的もなく、ただ時間の流れに身を任せていた。
「どうしたの、急に」
「私、情報と生命ってクオリアとかテロメアとかアポトーシスとか、圭一が好きそうなワードがアタリマエのように出てくる講義を取ってるんだけど、その時に教授が言っていたんだ。人の細胞は7年で入れ替わる、だから君たちが30歳になる頃には全く違う人間になる。きっとこの講義も憶えてない別人になるだろうって」
「それを聞くとテセウスの船って感じがするけどなぁ」
 先日読んだ小説で知った哲学的キーワードを話してみたくなった。夕日がまだ沈んでいない井の頭公園の池にはアヒルボードを漕いでいる男女や制服の女子たちが見える。別の人間が漕いでもアヒルボードの塗装が剥がれて修理しても、ペダルやハンドルを差し替えてもあれは井の頭公園のアヒルボートなのだろう。「また難しい単語言ってさ。まぁそんなところも圭一らしくて好きなんだけど。」
 僕も郁美が好きだった。少し色の入ったミディアムヘア、綺麗な二重、パンプスやヒールよりスニーカーをえらぶ、カジュアルなファッションが好きなところ。それ以上に少しでも興味があれば行動するその生き方に僕は惹かれていた。
「まぁあの講義、私しか文系いなさそうだからさ、期末レポート書くとき、手伝ってよね」
「それはもちろん」
手持ち無沙汰の右手をポケットから引き抜き、彼女の左手に乗せた。郁美も握り返してくれる。
 僕らの世界は完璧だった。ただ一つ、僕は土日休みの企業に内定をもらい、4月から東京から離れることになるだろうということと、彼女がシフト制の企業に内定をもらったこと以外は。瑣末な問題だと思いながら、この半年間でほぼ同棲のライフスタイルを送っていた僕らにとってはどうなるか見えない、真っ暗なトンネルを前にしたようだった。
 そして僕らは真っ暗なトンネルで手を離してしまった。

 郁美に会えるだろうか。
名古屋駅徒歩10分程度の中部支社で6年間勤務した僕は、33階の会議室で異動の辞令を受けた。
 4月からは飯田橋本社の営業企画部に異動になった。内定したときから営業やマーケティングをやりたかったが、営業企画という各部署の数字を集め、経営層に事業進捗を報告する部署に配属された僕は絶望していた。会議のための会議、調整につぐ調整、単位が1つでも間違っていれば烈火のごとく指摘される部署は自分には向いていないと思いながらも、6年経っていた。SPIや適正診断というものはあながち間違っていないのだなと思いつつ、異動先でも同様の業務ができることに安堵している自分がいた。
 異動について同僚には寂しがってくれた。たくさん送別会をやろうと言ってくれた。東京なんか怖くて行きたくないと冗談混じりに話してくれる。僕も郁美と別れてから東京から離れてしまい、実家の福井にはより近くなったこともあって、東京にはほとんど行っていなかった。
 郁美となんで別れたかは覚えていないが、学生から社会人の階段は真っ暗で急傾斜だった。どちらかはでなく、2人で踏み外してしまって、なんとなく引け目に感じて僕らは静かに別れた。
 
帰ってきて、無機質な部屋のダウンライトを点ける。LINEを送ろうと思って20分くらい経った。このままではまずいとかティーサークを一杯煽り、意を決してLINEを送った。
“久しぶり。元気にしてるかな。来月から東京で働くことになった“
すぐに既読になるはずはない。シャワーを浴びているうちに返信がくるだろうと思い、立ち上がりタオルをもったところで左手のアップルウォッチに緑色の通知がきた。スマホを見た。
“久しぶり!そうなんだ。私もまだ東京で働いてるよ“
“そっか。よかった。来週末に東京に引継ぎで行くんだけど、そのとき会えないかな“
“いいよ。久しぶりに会おう。6年ぶりくらいだよね“
“そうだね。楽しみにしてる!“
日程調整も進みサンリオのキャラクターらしきスタンプが現れて6年ぶりの連絡は終わった。
僕は昂る心臓を落ち着かせるためにシャワーを浴びた。
 
 待ち合わせは下北沢だった。学生時代、2人でよく行った街だった。2人とも音楽や古着、文化に詳しくはなかったが色々な情報が雑多に集まる街が好きだった。6年ぶりの下北沢は駅近の闇市のような商店街がなくなり、高架沿いにハイセンスな店舗が並ぶようになっていた。2人でこの踏切開かないねと待っていた踏切は地下になったようで、利便性という秩序によってカオスが整えられてしまったことに時間の変化を感じた。
「久しぶり。よかった別人になってなくて」そういう彼女は別人になっていた。6年前、パーカーにスニーカー姿だった郁美は、レースがあしらわれた黒のチュニックにスカイブルーのワイドパンツ、編み込みのサンダル、最近流行っていると言われてるブランドの肩掛けポーチ。「東京の女性」になっていることに若干の寂しさを感じた。予約の時間もギリギリだから行こっか、と彼女が歩き出す。2ヶ月前まで新宿と渋谷の店舗をシフトごとで行き来していたらしく、今も僕らが通った大学の最寄駅に住んでいるらしかった。
 
 郁美が連れて行ってくれたお店は僕が知らない、スペインバルのお店だった。
スペインバルといっても、駅前の喧騒から離れ住宅街の入り口にあるお店だった。席はすでに満席に近い。L字カウンターの角に座り、僕らはビールを注文した。オリーブと共にビールが提供され、6年ぶりに乾杯した。郁美がなれたように鮎のコンフィのテリーヌ、子羊の背肉のロースト、アロスコンアルメハス、を続けて注文した。お腹空いてるからいいよね?と注文し終わってから聞いてきたが、全く問題はなかった。
 グラスを傾けながら、取り留めのない会話をした。渋谷はヒカリエに次いでもう一つビルができたこと郁美は店舗の販売員で結果を出し、バイヤーになったこと、サークルメンバーの1人が地球一周の旅に出ていること、一番おとなしかったクラスメイトが起業してそれなりに成功していること、2人のデートコースだったBunkamuraはまもなくクローズすること、僕が別れてすぐに会社の女の子と付き合ったこと、郁美もつい最近まで彼氏がいたこと。 
 近況報告の中で料理が提供される。鮎は特有の苦味を楽しめるようにアレンジされていてビールが進んだ。子羊のローストは癖が出過ぎないよう、丁寧に下処理がされ、ロメスコソースというカタルーニャ地方のソースは絶品だった。付け合わせの人参のグラッセまでも美味しい。パエリアくらいしか知らなかった僕は、郁美が別れた後に僕と過ごした何倍もの経験を様々な人と共にしてきたのだろうと、会話の節々から感じた。東京の生きる時間はそれ以外の日本と比べて格段に早い。井の頭公園のアヒルボートも別物になっているのだろう。
 郁美がクレマカタラーナを食べ終わる頃、僕が赤ワインの最後の一口の飲み込んだ。「次は吉祥寺のEPEEに行きたいね」と彼女が言った。次回の約束をしてくれたことは嬉しいと思いつつも知らないお店を紹介してくる彼女と僕の距離が更に広がるようで若干一抹の寂しさを感じた。「そうだね」と僕らは会計を済ませ、店をでた。
 
 桜は散りかけていた。郁美は黒いカーディガンを羽織り、僕らは住宅街から駅に向かって歩き出した。駅周辺は変わっていたが、周辺の住宅街は変わっていない。
 郁美が僕よりいろんなことを知っていることが嫌なわけではない。彼女が僕よりも下にいて欲しいとか、いつも僕が彼女に哲学や雑多な知識を教えたいとかそういった感情ではない。ただ、僕が知らない彼女が多すぎて、知らない人、男といろんな店に行って、僕の好きな笑顔を知らないやつに見せて、幸せになっていることを痛感して、なぜ別れてしまったのだろうか、今なら耐えられるのではないかと後悔と妄想と、過去に引きづられていないように見える彼女に歪んだ劣等感を頂いてしまっていた。
 歩きながらふと、6年前の記憶にある路地が見えた。大学生の頃、ピートも果実のフレーバーもわからないのに背伸びをして、よくバーに通っていた。このバーも今度下北沢で飲むときがあったら誘おうと思っていた店だった。もう一件だけ行きたいと伝えると、いいよと言ってくれた。413線から下北沢駅に向かう2本目の曲がり角にそのバーはあった。重い扉を開けて入ると、我々を待っていたように2席だけ空いていた。
 僕はカリラのロックをオーダーした。彼女は少し悩んでから、
「アレキサンダーをお願いします」といった。
 2人で初めてバーに行った時に教えてもらったカクテルだった。僕らは会話をせず、バーテンダーの鮮やかな手捌きを見ていた。カリラとアレキサンダーがそれぞれ前に出され、グラスを合わせず小さく乾杯した。
「やっぱ一番好きなお酒はこれかな」グラスを見つめながら呟いていた。その顔は6年前と変わっていなかった。バーはこそこそ話ができる人にしか向いていない。はじめてのバーでニヤリとバーテンダーが教えてくれたことだ。僕らはひっそりと会話を続けた。
「ねぇ。テセウスの船って覚えている?船の船員が変わって、破損した部分を新しい材木で修理していって、最初に乗っていた人はいなくなって、使われてた木材も全てリニューアルされてもそれは同じなんだろうかって話。」
僕は井の頭公園のアヒルボートを想像した。
「それとさ、人間の細胞は7年で入れ替わるって話。あの教授、30歳になる頃にはこの講義を誰も覚えていない別人になるって言っていたのに、私は覚えてるんだけどね。」
「当然だけどさ、ある日突然細胞が全部変わって、この瞬間から別人になりました、なんて風にはならないと思うの。でも日々修理をする中で、今より強くならないと思うとボロボロの物から変わっていくけどさ、なかなか修理できないものってあるんじゃないかな」
グラスを見ながら話す横顔だけでは彼女が酩酊なのかどうかはわからなかった。
「あと1年で7年。私たち細胞が刷新されてそれぞれ別の人間になるところだったのかもね。そうしたら会うこともなかったのかな。それとも何か残っていて、やっぱり会うことになったのかな」
「今日、会いたくなかった?」
「そうじゃない。会えて嬉しい。ただ、良い思い出も、悪い思い出も何かある状態で過ごすことと、まっさらな状態で過ごすことはどっちが幸せなのだろうかと思ってさ。」
何処かの公園に浮ぶ、塗装が剥げたアヒルボートを想像していた。アヒルボートは公園に金を落とすためにも乗ってもらう必要があるだろう。ボロく見えてはいけないから、新しく塗装した方がいい。それは資本主義では当然だ。でも、過去に誰かと乗って、もう一度乗ることがあったなら、「あの時」のアヒルボートを探すのではないか。僕が連れて行きたかったバーに今いることだって、彼女ははじめてでも、僕は過去の記憶をたぐり寄せているのだろう。変わっていくのだとしても、ふとした時に記憶を辿って自分たちが居た、居たかった記憶を探すのかもしれない。
「人は変わらないと思うよ。変わったとしても、変えたくないものもある。それもいずれ変わってしまうけど」
「何それ。また哲学チックなこと?」彼女は僕のトートロジーを笑った。この会話なんだ。変わってしまったこと、変わらなかったことと分けなくても、混在している今をただ生きることだけしか、アヒルボートにはできない。今日の靄がかかった思考が晴れていく。度数の高いカリラの影響だけじゃない。
僕はカウンターの下の郁美の手を握った。
彼女の顔は見えない。彼女が握り返してくれるかはわからない。

 僕らの細胞が生まれ変わるまであと1年。これからのことは僕も郁美も知らない。

 


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