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タワマン文学#10 新宿

 笹川綾はバーが得意ではなかった。
 まだ数えるほどしか行っていないが、ハイチェアは疲れるし、カウンター席で横並びで目を見て話をしない男は気障だし、カクテルにせよなんにせよ名前が多すぎる。おすすめは、と聞いても、メニューは置いてないので、気分やテイストを仰っていただければ、といった質問に質問返しする場所。でも一番苦手なのはジャズが流れる静かな雰囲気。

「バーでの会話は心の内側の話。だから話す時は秘密を話すように、小声で話すのがマナー、いや暗黙の了承ってやつかな」うっすらと顔は憶えている男が銀座のバーカウンターで社会人2年目になったばかりの綾に話していたことを思い出す。小声で話すことは、綾のコンプレックスであった低い声が強調される気がして、自分の本当に話したいことを話せないような気がして苦手だった。

 ただ、男が全額払ったあとの二件目はバーだった。ハイチェアの背筋を伸ばすような慣れない姿勢で綾は男の話を聞く。静かな綾の反応を伺って時折、視線を向けられた時に目を見られたときに、タイミングよく相槌をうつ。そうすれば会話がわかっていなくても、相手はわかってくれたように理解し、満足する。誰もが相手を楽しませるよりも自分が楽しむことを優先する。話を聞いている、という非言語なアピールはわかったふりの相槌を打つよりも心地良くさせる。ただ、帰路、夜風に当たりながら自分が話したいこと、伝えたいことはないのだろうか、と漠然とした思考が重石のように心に残る。仕事の成功失敗でもなく、友達とのフランクな会話でもなく、家族との何でも話せる関係でもなく、誰かに心配して欲しいわけじゃない、でも誰かに聞いてほしい話がある気がしていた。

「綾…ちゃんだよね?」
「お久しぶりです…」 
 その日は、新卒同期だった将生から連絡があって、定期的に同じ大学卒という繋がりだけを元に友達を増やすであったり、自分より過酷な職場を知って傷を癒すような、つまりは懇親を深める会だった。綾は予定がなければ参加していた。将生は比較的味と値段の良いお店をいつもセレクトしてくれるため、自分の選択肢を増やすという意味ではこれ以上ないほど最適だった。将生とは大学は同じでも学部は違う。将生は政治経済系で、綾は当時流行っていた漢字とカタカナが利用された比較的新設の学部であった。

“呼ぶ予定のやつがこれなくなったから先輩を連れて行くわ、先輩も明治だから“
“りょうかい“

 誰でもいいと思いながら新宿三丁目の世界堂の前で待っていた。7分後に世界堂前に現れたのは将生と、綾と同じゼミで先輩だった成田侑だった。綾は少しだけ動揺した。

 スパークリングがフリーフローの小洒落たイタリアンに入った。スパークリングを2杯くらい空にすれば、初対面の緊張はほぐれ、誰もが口を軽くし、笑いが増える。突然の成田の再会に驚いた綾はグラス2杯ではまだ落ち着いていなかった。別に付き合っていたわけでも、好意があったわけではない。
 ただ、自分の過去を知っている人間と会うのはあまり好きではなかった。それが大学時代の、周りに流されて量産型のような思考、服装をしていた自分をよく知る人間なら尚更だ。自分の過去を別の人間のレンズで捉えられて、思いがけず発信されたら、しかし発信されたところで何も変わるまい、と思いつつも気は抜けなかった。

「綾と同じゼミだったんですか?どんなでした?」
「うーん、そこまで絡んでなかったからなぁ。でもゼミも真面目にやってたし、合宿とかで遊ぶ時はめちゃ楽しそうだったし、普通の大学生だったよね」

 満点の回答をした成田に安心する。よかった、私を会話のネタに使わないんだと判断し、綾は緊張が徐々にほぐれ、牛ひき肉のタリアテッレを食べる頃には会を楽しめていた。

 俺明日、早いので、と将生が駅の地下の階段に消えていく。残された成田と綾は今日はありがとうございました、とお互いに頭を下げる。先ほどのイタリアンで大学時代と変わらず同じ京王線沿いで特急駅と快速駅に住んでいると会話していた。

「ごめん、あんな感じでよかったかな」ゆるくパーマされた髪を掻きながら、イタズラが先生にバレなかった時のような顔をする。
「全然です、むしろ気を遣わせてしまって」
「僕、何をしたわけじゃないけど、過去の話を人にするのってあんまり好きじゃないからさ、綾ちゃんが嫌だったなと思ってさ」
「私もそうです、なので助かりました。ありがとうございます」

2人ともぎこちない反応に笑いあった。新宿駅に向かってゆっくり歩き出した時、もう一件だけ、どう、前にいったことがあるバーがあるんだ。成田がいった。綾は内心またバーか、と思いながらも、喜んで、と隣を歩いた。

 新宿御苑に向かって3分ほど歩いた雑居ビルの2階が成田の行きつけだった。客はまばらだったが、カウンターが2席空いていた。座ると温かいおしぼりとメニュー表を出された。成田はボウモアのソーダ割をオーダーした。
「綾ちゃんってレモンサワー好きじゃなかったっけ」成田が目を見て聞く。
「はい。そうです。よく憶えてましたね。でもこういう店にはないですよね。」
「そりゃ合宿であんだけ同じ酒飲んでいたら印象に残るよ。バーにはあんまり来ないの」
「誰かとご飯食べた後に、数えるほどですが、連れていってもらいますが、バーテンダーに今の気分を伝えるとかが多くて。覚えてないですね」
「なるほど。それならさ、ここはご馳走するから頼んでいい?」

 こういったお店に来るたび、お酒のオーダーから会計のタイミング、つまりは終電が近づいた時でさえ、君がどうしたいかだよ、君が決めればいいんだよ、と自分を守ろうとするような男の発言に辟易していた綾は、対照的な成田の少し強引なお願いが嬉しく、是非お願いします、と小さく頭を下げる。
 
 成田の前にはボウモアのハイボール、綾の前にはジョン・コリンズがサーブされる。ジョン・コリンズはウイスキー特有の香りは弱く、レモンジュースの酸味と強めの甘味、そして強めの炭酸が心地よかった。美味しい、と、こぼれた。
「よかった。知ってると通っぽいし、知らないで変な酒とか飲まされるよりはマシでしょ。ロングアイランドアイスティーとか飲んじゃダメだよ」
 成田の安堵した笑顔を見て綾も安堵した。バーの苦手が一つ減った。
 
 成田は綾に色々なことを聞いた。大学時代の話、就活の話、仕事の話。いつもは話を聞いていたが、今日は綾がよく話した。成田は相槌を打ちながら、バーの雰囲気を壊さない程度のリアクションを取ってくれた。
2杯のジョン・コリンズがグラスの半分まで減った頃に綾は成田に話してみたくなった。

「私、明日も生きていたいか?って考えることがあるんです。今日、楽しいことがあっても明日も必ず楽しいとは限らない。人生とか仕事に悩んでるってわけじゃなくて、なんというか、漠然と」
成田はハイボールが入ったグラスを見つめがら頷いていた。
「なんで生きてるんだろうってところまでは行きませんが、明日って今日より良くなるんですかね。」
綾は漠然と、重石のように自分の心にあった言葉を紡ぎ出した。
成田はハイボールで口を湿らす。クスッと小さく、面白かった話を思い出しように口角が上がった。

「面白い話だけどさ、人間の魂ってあると思う?」
成田の口から出たワードに綾は反応できなかった。
「過去実験した人がいてさ、死に際の人を体重計に乗せて、その人が死んだら21グラム軽くなったんだって。そこから人間には魂がある。そして魂の重さは21グラムなのだ、という話が生まれた」
綾は相槌も打てず、成田の話を聞く。

「これってさ、人生経験豊富な人は22グラムなのかな。21グラムの人ってどんな人だったのかな。今死んだら、何グラムになるんだろうって。」
綾は自分の魂の重さを想像した。21グラムはいちご一粒らしい。
「あとは重さだけじゃなくて、どんな形してるのかな。幽霊みたいなモワモワしてるのかな。それとも漫画の吹き出しみたいに大きいのかな」

 自分の魂はどんな形か想像した。イメージしたら、いちごが浮かんだ。いちごくらいの重さのものが私の魂。こんなちっぽけなものが全身の命運を決めるなんて、明日のことを考えるなんて、バカらしくなった。
「僕は、いろんなことを経験して、せめて22グラムの重さは欲しいなぁって思ったのと、人生は濃い時間だ、って表現する時もあるから、密度を濃くしていって、簡単に身体から離れられないようにしようって思ったんだ。壮大なようで中身がないけど、それが僕の生きていたい理由かな?」
大事にしてきたおもちゃを見せるような、少し恥ずかしそうな顔で笑った。

 それなら、と。綾は美味しいものを食べるのが好きだ。
美食で覆い尽くして、魂が身体から離れないようにしよう。それは生きていたい理由になるのでは、と程よく酔いが回った頭で思考した。食べて美味しかったものを忘れないようにメモしていこう。東京は対価を求める男ほど美味しいものと私を繋いでくれる。相手の欲望に付き合いながらも美食の経験で覆い尽くして、誰と食べたかなんて忘れよう。
ジョン・コリンズを飲み干す。綾は自分の魂が少しだけ重くなったような気がした。

ふと、7年くらい前のことを笹川綾は思い出した。
魂が順調に重くなって、離れられないようになっているか、それは分からないが少なくとも、明日も生きてもいいかなと思っている。
今日は3ヶ月ぶりに連絡が来た男に鮨に誘われた。きっと二件目でバーでも行くのだろう。
今日も東京で、明日を少し期待して生きる。



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