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國分功一郎『暇と退屈の倫理学』【基礎教養部】

『暇と退屈の倫理学』は、同じコミュニティのメンバーである蜆一朗さんに紹介していただいた本である。蜆一朗さんによる書評およびNote記事は以下を参照:

また、あんまんさんも本書に関するNote記事を書いていらっしゃるのでそちらも参照されたい:

蜆一朗さんによるNote記事にも書かれているように、本書は哲学書であるにもかかわらずかなり読みやすかった。前回書評を書いた岡田暁生『音楽の聴き方−聴く型と趣味を語る言葉』では前提知識が必要でやや難解な具体例が多かったが、今回の本は身近なものを題材とした具体例が多く、自分に関係することとして受け止めながらすらすら読むことができた。



本書を読んで気付いたこと:ある問題についての思考を掘り下げていくと我々「人間」そのものに行き着く

本書は「暇」と「退屈」について深く考えるというものであるが、第6章(全部で7章ある)のタイトルが「暇と退屈の人間学」であることからも分かるように、最終的には「人間とは何か?」という問題に行き着く。本書では、「人間であるとは、おおむね退屈の第二形式を生きること、つまり、退屈と気晴らしとが独特の仕方で絡み合ったものを生きること」だと述べられている(本書400ページ)。

面白いことに、以前、書評で取り上げ、物理学部のワークショップの題材としても取り上げたカルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』での「時間」に関する思考の中でも、最終的には「人間とは何か」という問いに行き着いていた。そしてその思考の結果、「時間とは、私たちヒトのアイデンティティーの源である」という結論に達したのであった。ちなみに、『暇と退屈の倫理学』においても「時間」について論じられている。

以上のことから、「ある問題ついての思考を掘り下げていくと「人間」そのものについての問題に行き着く」と言えるのではないだろうか?別の言い方をすると、我々が考える問題には「人間」そのものについての問題が必ず内在するのではないだろうか?

私は、大学ではニュートリノ物理に関する研究を行っているのだが、それについてもよく考えてみれば「人間」そのものについての問題が含まれている。その研究では「この宇宙は全て物質できていて反物質が見当たらないのは何故か」という「消えた反物質の謎」と呼ばれる問題に対する答えを得ようとしている。もしも、この世界が物質ではなくて反物質でできていれば我々はいない。したがって、「消えた反物質の謎」の答えを得ることは我々の人間の存在理由の1つの答えを得ることを意味するのである。

では、なぜ我々が考える問題には我々「人間」そのものについての問題が内在するのだろうか?それについて、私は「思考するのが我々人間だから」だと考える。これまでに私が書いたNote記事で何回も言及したように、完全に客観的だと思われている「科学」でさえも、所詮人間が人間の視点から作ったものであり、完全に客観的とはならず、人間による先入観・偏見がどうしても入ってしまう。『暇と退屈の倫理学』内での言葉で言うと、人間は人間自身の環世界に生きているのである。そのように考えると、我々が考えるあらゆる問題に我々「人間」自身の問題が内在しているのは当然のことの世に思えてくる。

本書の結論から自分の生き方を考える

本書では、結論として次のように述べられている:

しかし、世界には思考を強いる物や出来事があふれている。楽しいことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物になること〉を待ち構えることができるようになる。これが本書『暇と退屈の倫理学』の結論だ。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』結論 p409

この本書の結論を受けて、自分の生き方について考えてみる。なお、本書で述べられているように、本文を通読せずにこの結論だけ読んでも意味がないので、気になる方はぜひ本書を通読していただきたい。

前回の記事でも書いたように、私は「ピアノ」という趣味、気晴らしの方法を持っている。そして、それに関して、上の結論を実践できているように思う。実際、You Tubeの演奏動画や解説動画、ネット上の記事、ピアノのレッスンなどで(クラシック)音楽について学び、ピアノを弾いたり演奏を聴いたりすることを楽しめている。さらに、ピアノの演奏、作品、作曲家について「どのように弾けば美しく聴こえるか」「作曲家の意図はどのようなものか」というような思考を常に行なっている。つまり、〈動物になること〉ができているように思う。

ただ、最近、大学の研究が本格的に始まって忙しくなり、「ピアノ」という趣味の時間が以前より減っている。今はまだ多少なりとも余裕があり「正気」を保ちながら生きているが、今後、さらに忙しくなると、「正気」を保てなくなり、ハイデッガーの退屈論での「第一形式」と「第三形式」のサーキットの中に身を置いてしまいかねない。今のところ、研究は楽しく続けられている。しかし、いくら楽しいことだとしても、その量がある一定以上になると、キャパオーバーしてしまい、楽しめなくなってしまう。

したがって、今後、大学の研究は、進捗の奴隷にならずに楽しめる範囲内で行い、一方で趣味の時間もある程度確保して「正気」を保ちながら生きていきたいと思う。

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