最強のラテン音楽を求めて|カーネギーホールで客を座らせる編|Liner-note
友だちの子(=年の離れた友だち)が11月7日、NYのカーネギーホールでピアノを弾いたとですよ。なにやら国際音楽コンクールで入賞したとかで。これってすごくないですか? 一緒にキャンプしていた頃には想像していなかった未来ですね。
カーネギーホールの概要をまとめてみますね。ChatGPTさん、お願い(添削あり)。
元ラテン音楽フリークの志村まうしろが気になったのは、はたしてどんなラテンのミュージシャンがこのホールで演奏したことがあるの?でした。
答えは「たくさんかつ多様にいます」です。ティト・プエンテやセリア・クルスなどファニアの面々、ホセ・フェリシアーノ、パコ・デ・ルシア、チャベーラ・バルガス、ビクトル・マヌエル、エクトル・アコスタ、ナタリア・ラフォルカデと枚挙にいとまがありません。ただ、踊れるスペースはないので、ダンス音楽というよりリスニング音楽としても成立するような楽曲が多いようです。
例によっていくつかピックアップしてみましょう。
Gilberto Santa Rosa “Perdóname”
どうですか? 一大叙事詩みたく、まさに聞かせるサルサですよね。ヒルベルト・サンタロサのことをいつだったか轢かれたカエルみたいと評した人がいますが(口笛)、人は見た目で判断してはいけないのです。
彼はプエルトリコ出身で、サルサとボレロの歌手(大御所)です。キューバ生まれのボレロは、まあロマン歌謡と言っていいと思います。で、この曲はボレロ寄りです。
この曲「Perdoname」にはソネオという即興パートが4分もあって、これが大きな反響を呼びました。あまりに評判がよかったのでサンタロサは、即興だったのにこの歌詞を暗記しなければならなくなったそうですよ。
Buena Vista Social Club “Chan Chan”
1990年代のキューバには、ブエナビスタ・ソシアルクラブのようなじいさんミュージシャンは、ピンキリ合わせると星の数にわずかに満たないほどいました。彼らを峻別したのは運だと私は捉えています。
BVSCのベテランたちによる演奏は、長年熟成された技術とニヒルな感情が凝縮されていたと思います。1998年のカーネギーホール公演は、キューバ音楽に対する世界的な関心を再燃させるきっかけとなりました。
ただそれは、「資本主義に再び搾取される」と同義のような気がします。黒幕はライ・クーダーの背後にうごめくビジネスマンですけどね。
Sergio Mendes Sextet “One Note Samba”
1962年のボサノヴァ(?)です。セルジオ・メンデスがセクステット形式のバンドを組んでいた頃の作品です。バンド名はThe Bossa Rio Sextet of Brazilとも呼ぶみたいです。この公演は米国で初めて開かれたボサノヴァのライブだったそうですね。
彼は1950年代後半にジャズを志し、その後アントニオ・カルロス・ジョビンやジョアン・ジルベルトの影響を受けボサノヴァに転向しました。そして1966年、セルジオ・メンデス&ブラジル'66として代表曲「Mas Que Nada」をヒットさせ、世界中で有名になりました。
私が付け焼き刃で言えるのはここまでです。
前述したように、カーネギーホールではコンサートだけでなくラテン音楽を紹介するイベントや展示も行われ、「音楽の知識を深める学びの場」の役割を果たしています。過去に行われたラテン音楽のイベントを主催者の映像とともにふたつほど紹介しましょう。
Voices from Latin America(2012年)
2012年の「ラテンアメリカからの声」という大規模なフェスティバルでは、ブラジル、キューバ、メキシコのアーティストが出演し、展示やパネルディスカッションも行われ、ラテン音楽の文化的背景や社会的影響が深く掘り下げられました。
個人的にはイラケレのチューチョ・バルデスの出演シーンが印象に残りました。キューバ音楽とジャズを融合させた偉人すぎて、その音楽にはずっと及び腰でしたので…
Nuestros sonidos: Celebrating Latin Culture in the US(2024年)
いま行われているのが「私たちの音」というイベントです。活気に満ち、先駆的で、多様な伝統を持つラテンアメリカやカリブ海の米国における音楽的プレゼンスを、楽しく学びましょうという意図があります。1930年代から今日まで米国で発展したジャンルに特に焦点が当てられています。