LGBTQ当事者なのにレインボーフラッグを「見たくない」①
■第1話
私はゲイだが、性的マイノリティの社会運動を象徴するレインボーフラッグが嫌いだ。思わず目を背けたくなるほどに。要は「気持ち悪くて、見たくない」のである。
こう書くと、政権の中枢で差別発言を放った秘書官を思い出される方もいるだろう。「見たくもない」という言葉は、ポリコレ的に一発アウト。レッドカード退場。彼は、その後、まるでテレビの生中継に映り込んでしまったディレクターが瞬時に状況を察して目にも止まらぬ速さで身を引くかの如く、表舞台から去った。
だが、それで良かったのだろうか。「見たくもない」という彼の発言を、もう「見たくもない」と思って我々が圧をかけたのだとすれば、同じ轍を踏んでいるのではないか。ウンコに蓋をすれば、確かに見えなくはなるが、ずっとそこにあるのである。見えないが、異臭はする。
前提として、「見たくもない」という感情は、純粋な生理反応として厳然と存在するものである。小さな粒の集合体を見たくない。ゴキブリを見たくない。暴力沙汰を見たくない。そのピュアな感情そのものは、否定されるべきではない。
問題は、その気持ちを公に吐露することで傷つく人間がいることに、彼の想像が及ばなかったことである。彼は、公僕としては無垢であり、幼稚すぎたのだ。
一方で、「彼は無自覚すぎる。人権意識の欠如が甚だしい。人としてあり得ない」と、訳知り顔で論評するメディア側の人間も、私には幼稚にすぎるように見える。他人を表面的に非難することは簡単である。あるいは他人を下げることで自分を相対的に上げようとする意図があるかどうかはさておき、かつて「保毛田保毛男」という下品なキャラクターで視聴率を稼ごうとしたメディアの側に、自己批判の姿勢がつゆほども見られなかった点で、底が透けるというものだ。
荒井秘書官は、私自身の問題である。まずは、そこに立脚しなければ、「自分はあいつとは違う」と分断を煽るだけになってしまう。どちらの荷物がより重いか、どちらがより可哀想なのか、という陣取り合戦に興味はない。
自己批判の試みに自分を置いた時、私にも「見たくもない」と吐き捨てたくなる感情があることに気づいた。冒頭に記した、「レインボーフラッグはキモくて見たくもない」というウンコである。
当事者ではない方のために補足しておくと、レインボーフラッグとは、LGBTQ+の尊厳と、社会運動を象徴する旗のことである。最も広く使われているのは、赤、オレンジ、黄、緑、青、紫色の6色で構成されたものだ。LGBTQ+のアイデンティティや連帯を表すものとして、旗だけではなく、アクセサリや衣服といったパーソナルアイテムにも使われているので、街で見かけたことがある人も少なくないだろう。
普通なら、当事者であれば、その当事者性を象徴するアイテムに好意的な感情を抱くか、少なくともニュートラルな感情を抱くものだと思う。だが、私はなぜか、ひどく嫌悪の情を抱いてしまうのである。
なぜか、と聞かれても、よくわからない。だが、荒井秘書官の一件があってからというもの、私自身、その理由がとても気になってしまった。そこで、少しずつ、その謎を解き明かす旅を始めようと思ったのである。
このnoteで、考えたことを記録するつもりだ。言葉にすることで、自分も気づかなかった感情にふれ、「こちら側」と「あちら側」を埋める手掛かりが見つかるかもしれないという少しの期待を抱きながら。