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『万葉集』に思う

(Ⅰ) 蘇我赤兄(そがのあかえ)にそそのかされて謀反の罪に問われることとなった悲劇の皇子、有間皇子(ありまのみこ)が紀州に護送される道中で詠んだ次の歌は、私達の心に重く悲しく響いてきます。
 そして同時に“道具”というものの本質を見事に教えてくれています。

“家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕
        旅にしあれば 椎の葉に盛る”  

(巻2・142)

 一縷の望みを託す神に捧げる飯を盛るため、ぜひ美しい容器がほしい、と皇子は願います。しかし皇子は護送される身、持ち合わせている由もありません。ふと目の前を見ると見事な椎の木が、大空に向って枝を伸ばしているではありませんか。

“そうだ、美しい椎の葉に飯を盛って捧げましょう”
という有馬皇子の気品のあふれた笑顔そして皇子の心情が鮮やかに伝わってきます。

 この歌は道具というものは決して手先の器用さ、知識によって機械的に編み出されるものではなく、人の豊かな感性、心の動きによって編み出されるもの、常に“心”が伴われなければならないことを、現代を生きる私達に教えています。

 日進月歩のさまざまな道具類そしてオフィスにあふれる情報機器、人々の手の中にあるスマートフォンなどにも“人の心”、“豊かな感性”が伴われて編み出されていなければ、決して“本物”にはならないでしょう。
 道具の本来の意味は「仏道の具」のことで、宗教的なもの心に深く関わるものあることを思い出しましょう。

(Ⅱ) 額田王(ぬかたのおおきみ)と鏡王女(かがみのおおきみ)の歌、二首

“君待つと 我が恋ひ居れば 我が屋戸の
       簾(すだれ)動かし 秋の風吹く”

(巻4・488/巻8・1606)

“風をだに 恋ふるはともし 風をだに
       来むとし待たば 何か嘆かむ”   

(巻4・489/巻8・1607)

は本当にほほえましい歌ですね。今から1300年以上も前の

“恋人!と思ったんだけど、なぁーんだ簾を動かしたのは風だったのね……”

“風が簾を動かしただけで、恋人?と思えるなんて全く羨ましいわ”

といった内容の姉妹の会話が、私達に生き生きと伝わってきます。
まるでビデオで再生されるように姉妹の会話が聞こえてきます……。

 いえ、いえ、テレビ、スマホなどで耳にするドラマの中の会話よりも、もっともっと印象的に私達の胸を打って聞こえてくるのではないでしょうか。

 短い歌の中に“風をだに”が2回繰り返されています。思ったことを率直に訴えて止まない若さ、明るさ…強くつよく感じられると私は素直に思います。 

 『万葉集』では、緑あふれる我が国の山河が、鮮やかに、そして沢山に詠まれています。環境問題の重要さが叫ばれる今日、自然とともに生きていた万葉時代の人の目で、日本の山河をもう一度見つめなおしてみてはどうでしょうか。
 日本人の心のふるさととしての『万葉集』。世の中が急激に変貌していくこの多難な時代にこそ、時折紐解いてみたい書物です。

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