芸術の裏側にある政治劇──『カラヤンとフルトヴェングラー』読書感想文
書籍データ
想像以上に面白かった!!
有名な指揮者といえば必ず名前の上がる二人の、ベルリン・フィルをめぐる愛憎物語。
ノンフィクションは形に残されているものから見えることのみを描き、当事者の当時の内面までは踏み込まない(あくまで著者の類推であることが明記される)ので、こちらの想像の余地がある。
また、過去の話は結末がすでに決している事柄に対し、その経緯が明らかになっていくという”ちょうど良い気になり感”と”緊迫感”が感じられる。
だから、私はノンフィクションが好き。
指揮者という職が求められるのは芸術性ばかりではないというのは薄々感じていたが、著者の「あとがき」のこの記述部分になるほどと頷かされる。
なかでも、群を抜いた芸術的才能と、圧倒的したたかさを持っていたカラヤンが、『クラシックの帝王』への道の発端、ベルリン・フィル主席の座を射止めるまでが本書には描かれる。
帝王カラヤンが生まれるまで
私の祖父はクラシックが好きだった。
彼のCDコレクションに「ベルリンフィル」「カラヤン」の名前がかなりの比率で並んでいたことを覚えている(でも祖父はカラヤン嫌いだったらしいのだけど)。
意識はしていなかったが幼い頃たぶん家で一番耳にしていたクラシック音楽はカラヤンの指揮だと思うし、大人になってからYouTubeで偶然耳にしたベルリン・フィル×カラヤンのドヴォルザーク『新世界より』に思い切り感動したこともある。
単純に才能がものすごくある人なのだろうなと思っていたが、『クラシックの帝王』となるには「自己プロデュース・マネージメント能力」はもとより、好機を逃さず人を見てしたたかに動ける才能が不可欠だったのだと本書を読んで改めて感じる。
あくまで本書での書かれ方から受けた印象だが、
良くいえば嘘をつけない高潔さがあり悪くいえば潔癖っぽいフルトヴェングラーと、良くいえば賢く悪くいえば打算的な性格のカラヤンが対立するのは必然だったのだろう。「この二人絶対に仲良くなれないだろうな」と読者の客観的視点から思ったし。
そして、数々の名演を生み出したことから、蜜月関係にあるとばかり思っていた指揮者とオーケストラのビジネスライクで複雑な関係……現実は甘くない。
尽きぬ野心を持つところと、独善的で利己的な性格についてはとても似ている二人は、互いの才能と存在を嫌というほど意識し、時に水面下で時に表立って火花をちらす。
フルトヴェングラーは聴覚に異常をきたして失意のまま生涯を終え、
しかし残されたカラヤンも死して永遠性を手に入れた巨匠の才に一生追い立てられることになる。
本当のところは誰にもわからないけれど。
自分の進退が決する決定的事態に際した、彼らの人間らしい私利私欲に塗れた決断や、交渉や、成功や、失敗。
表面をなぞっただけでも二人の一生は、あまりに感情的で、苛烈。
それは彼らが「普通ではない」証──芸術家らしいといえばらしい人生なのかもしれない。
クラシックの楽しみ方
カラヤンは録音と録画にこだわった人だと、エピローグに描かれている。
その技術は彼の前の時代に栄えたフルトヴェングラーは介入できない世界だったから。
しかし、結果的にカラヤンが執心したその技術の進歩は、希少なフルトヴェングラーの演奏の録音までもクリアに再現することができ、世界に広く聴かれることを可能にすることにもつながった。
芸術の価値や評価というものは、創る当事者にすらままならないものなのだなあとしみじみ。
私は、音楽は感動しさえすれば、その音楽そのものの芸術性だけを評価すれば良いと考えていたが(それが聞き分けられるほど耳がいいわけではないけれど)、「あとがき」で著者が言及しているように、その時のオーケストラとの関係性、本人の年齢やコンディションや時代背景と併せて聞くのもたしかに面白そうだと思った。