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ルソーの「良心」は生得的原理である
これは私が2001年11月13日に書き、昔持っていたホームページの随筆として公開していた文章を一部改変したものだ。
文章のほとんどすべてが当時のままである。
2001年は22年前だ。
その頃からこのような理解と認識であったという証左である。
※ ※ ※
学校の成績が良いから優秀とは限らない。
大学生時代の話だが、2年の一般教養選択科目に教育学を選んだ。
担当の教師はジャン・ジャック・ルソーの研究者で教科書も彼の著書であるルソー研究書だった。
ルソーの思想や理論は一般には難解とされているが、私には極めて理解しやすいものだったから著作を読むことにさほどの苦痛も感じず翻訳のまずさやルソー自身の論述のまずさを頭の中で訂正しながらではあったが異論もさほどなく、すらすら理解できた。
そして講義を聴きながら内心こう思っていた。
「先生、それは違うやろ」
例えば、ルソーの基礎的認識論について教授はこんな説明をした。
「幼児期の最初の発達はほとんどすべてのものが同時進行する。子どもは話すこと、食べること、歩くことをほとんど同じ時期に学ぶ。これが正確にいって子どもの生の最初の期間である。それ以前に彼は、母親の胎内にいたとき以上のなにものでもない。彼は自分自身の存在すら感じてはいない。」(ルソー『人間知性論』(一、岩波文庫)
「わたしたちは自身の行動の道徳的廉直あるいは邪悪さにかんするわたしたち自身の臆見あるいは判断以外のなにものでもない」(ルソー『エミール』(上、岩波文庫)
というルソー著作の翻訳を引用して
「人間はいかなる生得的な観念も原理も持つことなく、まったくの『白紙状態』で生まれてくるのであって、生まれたときにはそれこそ自分の存在さえも意識していない。」(林信弘『『エミールを読む』-ルソー教育思想入門』法律文化社、pp44-45)」とルソーが考えていると解釈してロックの「生得的観念否定論」の影響下にあると分析しさらにルソーの言う「良心」とは、
「偏見の産物でありなんら生得的な道徳的・宗教的実践原理ではない。」(林信弘『『エミールを読む』-ルソー教育思想入門』法律文化社、p45)
と、ルソー自身が言っていると解説した。
そのうえで、
「わたしたちの魂の奥底には、私たちがそれに基づいて、わたしたちの行動と他人の行動とを、善あるいは悪と判断する、正義と美徳の生得的原理があるのであって、この原理にこそ私は良心という名を与える。」(ルソー『エミール』(中、岩波文庫)
「善を知ることは善を愛することではない。人間は善について生得的な知識をもってはいない。しかし理性がそれを彼に知らせるやすぐに、良心は彼に善を愛させる。この感情こそが生得的なのである。」(ルソー『エミール』(中、岩波文庫)
という部分を引用し教授はこのような見解を示した。
「いったいこれはどういうことであろうか。一方では良心の生得性を必然的に否定せざるをえない認識論を展開しておきながら、他方では良心の生得性をその認識論の根本原則に据えるとはいったいどういうことであろうか。」(林信弘『『エミールを読む』-ルソー教育思想入門』法律文化社、p45)
教授が言うには、
「おそらくルソー自身、この認識論的矛盾を強く感じていたであろう。しかし同時に彼は、その経験の深いところでこの矛盾を矛盾としてそのまま容認していたのである。彼にとって、ある面では良心は感覚の複合物だと感じられたし、またある面では、理性そのものからさえも独立した直接的な生得原理と感じられたのである。‥‥ルソーは自己の認識論的矛盾を感じていた。しかし彼はその矛盾をなんとか切り抜けて、あえて自己の認識論に体系的整合性を与えようとはしなかった。なぜならルソーにとって人間とはもともと矛盾した存在だったからである。」(林信弘『『エミールを読む』-ルソー教育思想入門』法律文化社、pp45-46)
なんと出鱈目な解説をするのか!
と私は講義中欠伸を我慢しつつも呆れていた。
教授は、日本の学者一般に蔓延している二分法のドグマに縛られているのだ。
「人の能力は遺伝か、学習か」
「先天的か、後天的か」
「学習か、経験か」
もしくはそれらの中庸であるか。
これらはインテリたちすべてに共通するステロタイプどもである。
二分法の二者択一の選択肢。
二つのどちらに属するかを分類することが知的な仕事だと勘違いしている人間がこの国には極めて多い。
浅田彰が天才と呼ばれたのも「スキゾか、パラノか」というステロタイプが知識人たちの欲求を満たしたからである。
そんなものどもはルソーの思想を理解するために全く役に立たない。
ルソーは「良心」を一般的な価値体系や道徳体系だとは言っていない。
これは全くの生得的原理のことだ。
人間は生得的に「良心」の原理を肉体のなかに持って生まれてきている。
がしかしそれを体現するのは容易いことではない。
良心に従って人間諸個人が社会行動を行うようにするためには、現在の学校や家庭教育や企業教育では不可能である。
それらが教えるものは、思想であれ道徳であれ正義であれ、ステロタイプのゴミ捨て場の堆積のような「知識」に過ぎない。
知識は高度な理知的作業によって自発的に経験を昇華した結果として得られる認識や「意識」とは全く異質なものである。
「良心」とは、すべての人間が人間として完成した時その意識や言論、行動に到るまですべてを律するようになるたった一つの正しさの論理であり、そこに到らないものは間違っているかもしくは過渡期にあるものなのだ。
その「良心」を自覚させることが教育の本来の目的でなければならない。
そうルソーは言っているのであって、ここに「生得的観念論か、後天的観念論か、その中間か」の図式など当て嵌めようがない。
ルソーは学校での学習ではなく社会人としての経験が大事だ、などという浅薄な議論はしていない。
学校で得てくるステロタイプの知識も、企業に属して経験によって獲得した経験知も、どちらにも与していない。
経験知をもとにして理性的思考に徹することによりそれを高度な意識へと昇華する自発的な作業が人が人として完成するためには必要であると言っているのである。
教授の言うルソーの自己矛盾は、ルソーの矛盾ではなく教授自身が抱える拭い去れない自己矛盾をルソーに自己投影しているに過ぎない。
「良心」は人間が生得的に持つ原理である。
それを別の側面から指摘する用語として「元型」という概念がある。
人間は生まれつき将来完成するべき形として予定された姿があり、その元となるものを生得的に持って生まれてきている。
それが「元型」だ。
「元型」があってこそ人は人として生きてゆけるのであって決して白紙で生まれてくるわけではない。
この元型を活性化させ予定された自分自身として完成するためには、さまざまな外的要素が必要である。
さまざまなレベルで「活性化を触発するモデル」がなければならない。
それが文化であったり、法律であったり、道徳であったり、思想であったり、教育であったり、宗教であったり、両親の結婚形態であったりするのだ。
それら外的要素が非人間的なステロタイプの体系だったら元型の正常な活性化が行われず、人として正しく生きることはできない。
学校がする知識教育は、元型の活性化を阻害するステロタイプを知性に蓄積するだけのものであり間違った教育である。
ルソーはこれと同じことを言っているのである。
それを教授は全く理解していなかった。
教授は在り来たりの社会契約説比較をロックとルソーの間でやり、今は西田幾太郎哲学との比較検討に興味があると言っていた。
なんと遠回りな無駄な関心の持ち方であるか、と二十歳そこそこの私は嘆息しそんな方向に興味が向うとはルソーが何を言っているのかこの人は皆目理解できていないのだ、と考えた。
それでルソーの思想を学生に解説して教えるものではない。
私は極めて正直な人間だから期末試験の答案にそのようなことをそのまま書いた。
「西田哲学と比較検討することは無駄である。ルソーを理解するならユングを参考になさるべきだ」
それが教授の心象を著しく害したらしい。
結果私の成績は四段階評価のCになった。A=優・B=良・C=可・D=不可四段階の可である。
「一応勉強しているようだから落すのはやめておこう」ということだ。
ちなみに、教授と同じレベルでステロタイプの理屈を自前で書いた生徒はB、教授の教科書通り体裁よく書いた生徒がAだったと後の調査で分かった。
教授を触媒としてルソーを学んでいるはずが、いつの間にか主役のルソーがどこかへ消えてしまって、触媒だけを学習していたという訳である。
実に下らない。
私の大学時代の成績はあまりよくない。
このような答案ばかりを書いたからだ。
当時マルクス・レーニン主義に片足を踏み入れていた友人とルソーについて話したことがある。
「ルソーの教育論はどうだ?」
と私が訊くと彼は苦々しそうにこう言った。
「人間すべてをイエス・キリストにしようとしているみたいだ」
私はその答えを聞いてこう返した。
「おお流石、凄いな。よく理解している。ルソーの教育はまさにそのための教育論だからな」
全く彼の言う通りなのだ。
ルソーの教育論はそんじょそこらのエリート官僚や良妻賢母を育てようとするような甘いものではない。
ナザレのイエスを再臨させるにはどうするべきかという方法論なのだ。
ミンセーの彼は聖書もキリスト教思想も否定するマルクス主義社会主義者だからルソーが好きではなかったけれども思想がどんなものかは正確に理解していた。
彼も私同様あまり成績が良いほうではなかった。
教授こそがルソー思想の何たるかの本質を全く理解しないまま、本を書き学生を教えているのだ。
世の中とはそんなものなのだろうとそのころから分かり始めた。
三島由紀夫は評論のなかで、小説の神様志賀直哉と、無頼外道の太宰治を比較してこのようなことを言った。
「太宰は良く物事を理解している。相手を理解している。相手を理解しないことが勝ちだ。だから太宰は志賀に負けたのだ」
言い得て妙な話だ。
「私は教授より優秀だったから成績が悪かったのだ」
このことに私は今でも誇りと確信を持って生きている。