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自己投影

 どの本だったか忘れたが、瀬戸内寂聴が藤原道綱の母について「このような女は嫌いだ」と書いているのを読んだ。
 自らの実体験をそのまま描く文学を「私小説」というが、道綱の母はその原形とも評される女流日記文学の草分け『かげろふ日記(蜻蛉日記)』の作者である。
 藤原兼家の二番目の妻で『かげろふ日記』には兼家の不貞に苦しみ別れる切れると夫に文を送ったり鳴滝の山寺籠りをして夫に迎えに来させたりする一見して「わがままな」とも思える姿を和歌を交えながら記している。
 そこに表出した道綱の母自身の姿を見苦しいと瀬戸内寂聴は酷評したのだ。

「こんな女なら兼家が愛想を尽かして別の女のところへ行きたがるのも無理はない」
「兼家のほうに同情する」

 というようなことを書いていた。
 道綱の母は嫉妬深い嫌な女、という一般的イメージはおそらく瀬戸内寂聴のような"権威"が作ったものだろう。

 瀬戸内寂聴の本を読む前に『かげろふ日記』を読んだ私の道綱の母への感想はそれとは全く違っていた。
 人はみな自ら生涯一夫一妻の結婚をするための生得的な「元型」を持っている。
 それを自己実現像として完成させるには「元型活性化」プロセスが不可欠だ。
 元型活性化は、元型に完成が予定されている自己実現像と似た外的イメージに触れることで起こる。
 元型活性化システムにより人は元型と一致する外的イメージを見ると気持ちよくなり憧れや美やポジティヴな感情を抱くとともに、それを自己内在化させようとする。
 逆に元型と背反するイメージに触れると、それを不快に感じ嫌悪し汚いものと認識してネガティヴな感情を抱き、同時に元型活性化が阻害されて自己実現の障害になる。
 道綱の母の夫兼家に対する態度は、元型に反した夫婦像の押し付けに対する率直な拒否反応なのだ。
 人類すべてに普遍する生涯一夫一妻を自然とする「元型システム」によれば、道綱の母の反応は至極"自然な"ものだった。
 一夫多妻が当たり前だった平安時代にも一夫一妻の結婚を自然発生させる土壌があった、ということの証左として『かげろふ日記』は価値がある。
 生涯一夫一妻を希求する人間の欲求が欧米キリスト教道徳の押しつけではない自然発生的なものである証拠だと私は理解した。
 道綱の母は内面通りさぞ外見も美しい女性だったのだろうとも思った。

 ところが瀬戸内寂聴という醜女は道綱の母を「醜い嫌な女だ」というのだ。道綱の母が夫藤原兼家に対してとった態度が卑しい「妬心」だからだという。
 それまで瀬戸内寂聴の本を読んでいなかったが、この時点で瀬戸内寂静文学は読むに値しないだろうと感じたし、いくつか読んだ後ですらその感想は全く変わらなかった。
 彼女が言った「妬心」なるものは、道綱の母の本質をなんら言い当ててはいない見当違いな揣摩臆測でしかない。
 瀬戸内寂静氏自身をただ単に道綱の母に「自己投影」した姿にすぎない。
 妬心に塗れた醜い姿は瀬戸内寂聴氏の自画像だと思われたのだ。

 紫式部は和泉式部について「才能はあるようだが素行に問題が多い」という人物評を残した。
 妊娠した子が誰の子か分からないほど節操がない異性関係の醜聞を耳にしてそれを嫌ったからである。
 現代文学の"権威"がその記述を読んで「紫式部は和泉式部の才能とモテに嫉妬している」とする下世話な「自己投影」に過ぎない憶測をしたことがいつの間にか事実にすり替わった。
 2024年大河ドラマ『光る君へ』で脚本家は主人公「まひろ」と綽名した紫式部をして和泉式部に「貴女のように素直にありのままに生きてみたかった」と言わしめた。
「あなたが羨ましいわ」と紫式部が言ったと、ただの憶測をまるで事実そうであったかのように歴史改竄までしたわけだ。

 「自己投影」とは、このように相手が自らの理解を超越する不可解な存在に見え不快な気分に陥った時、自らに内在する悪しき感情や思考パターンを相手にそのまま写して解釈することで腑に落ちようとする自己防衛反応のことである。

 ある討論番組のレギュラーパネリストで、その発言に批判的なリプばかりがつくことを、その討論番組老害司会者がこう評した。
「才色兼備で成功しているから嫉妬しているのだ。気にすることはない」
 無論老害司会者の「自己投影」にすぎないが、本人も同様に理解し批判は気にも留めていないようだ。
 むろんそれも自分自身がそうするということの対象への自己投影による合理化にすぎない。
 テレビで利権を持つ者はそうやってエコーチェンバーの中で思考停止して感受性が劣化してゆくものであろう。

 その「自己投影」という心理作用の話であるが、不快な対象に対する自己防衛反応以外に別の場面でも違う「自己投影」の現れ方をすることがある。
 「恋」と呼ばれる現象だ。
 「自己投影」は恋という変性意識状態の形成とも密接に係わっているのだ。

 前ふりが長くなったがここで書こうとする人生の店じまいのための昔語りは、恋に係わる自己投影について述べようとするものである。

 大学時代三人連続してというか三人重なるようにして似たような目的で私に関心を示した女たちがいた。
 そのうちの二人についてはすでに書いたものがいくつもあるが、これは”三人目”についての想い出話だ。
 例の如く何の関わり合いも持つことはなかったが、私の態度次第では「そういうこと」になった可能性があったと思われる女性のうちの一人だったことだろう。

 大学生時代の話だから37年ほど前になるが、下宿近くに学生向けに定食を出すいきつけの喫茶店があった。
「キャスケット」という名の店だった。
 3、4人座れるカウンター席と、向い合せに2人座れるボックス席が3セットの小さな店だった。

 2024年2月に『野ざらし紀行』的心境にて久しぶりに京都を訪れた際、ふらりと立ち寄ってみたらあいにく定休日の札がでていた。
 店の外観は随分古ぼけてしまっていたがまだ営業しているような店のたたずまいだった。
 この喫茶店についてはすでに書いた文章が存在する。(※注1)
 「3・09クーデター未遂事件」が起こる前日の1988年3月8日の夜に、それを予知させるかのような「突然手袋の片方を返された」という共時的体験をしたのがこの喫茶店だった。

夕食を食べるためいきつけの喫茶店を訪れたら、店の奥さんとアルバイトの女の子が、私が店に近づいてくる姿を見るなり店内で慌てた様子になり、何事かと思い入ってみると「忘れてはったよ」と言って、手袋を片方返されたである。
原付バイクに乗る時必ずつけていたスキー用の手袋で、この店に忘れて来たどころか、なくなっていることすら返されるまで気づかなかったものだったので、ひどくびっくりしてしまった。

と同時に「なんだこれは?」と思った。

手袋を片方返される、というか叩きつけるという行為は、西洋では決闘申し込みを意味する。
不吉である。
機嫌よく過ごしていたのに、それで一気に気分が変わってしまった。
もしかしたら明日誰かと決闘するような敵対的な何かが起こるのではないか、と予感したからである。

果たして次の日の3月9日にTBSワイドショー生放送中に私が「3・09クーデター未遂事件」と呼ぶ異変が起こったのだった。

「3月8日のシンクロニシティ」https://note.com/bright_bee106/n/ne1ee1762ea6c

当時、店には二人のアルバイト女給仕がいた。
そしてこれからどこかで飯を食おうと部屋を出た時たまさか同じ下宿の誰かが帰ってきたらたいていこんな会話になった。

「どこで飯食った?」
「キャスケット」
「今日のバイト誰やった?」
「能面ねーちゃん」
「いくのやめとこか」

 「能面ねーちゃん」とは酷い名だが、誰ともなしにそういうようになりこの呼び名が密かに男子学生の間で共有されていたからそれだけで誰のことかは認識できたのだ。
 「キャスケット」の給仕をしているアルバイトの一人の呼び名だ。
 顔はみたまんまのっぺりした個性的な顔立ちの女性で、醜くはなかったが、年が少し上らしく二十歳代後半といったところだった。
 同じ商店街のクリーニング屋の娘で家事手伝いをしていたが、彼女が暇なときに店で給仕のアルバイトを頼むのだという。
 マスターの奥さんからの情報として彼女が「嫁に行く気がないらしい」というプライベートな話まで伝わっていた。
 もう一人の子は「象の脚」と呼ばれた。
 大柄でいつも髪はポニーテールにしていて目が大きく可愛らしい顔立ちだったのだが、太腿が健康的に太かった。
 だから誰かに「象の脚」と名付けられ男子大学生に蔭でそう呼ばれる羽目になった。無論私が名づけた訳ではない。
 こちらは京都市内の短大生だということだった。

 京都では当時大学生客目当ての安い食堂が多く点在していて男子大学生の常で飯の美味さより給仕の女の子目的で店にやってくるため、アルバイトには容姿の可愛い女の子を選ぶ傾向があった。
 この喫茶店もご多分に漏れず可愛い女の子を雇っていたように思われる。

 ある日そこへ新顔で美形の女子学生アルバイトが現れた。

 初見の印象はさほどでもない。
 髪はゆるくカールのかかった肩ほどの長さで化粧はない。
 白っぽい半袖のシャツとトレパンの上下に薄汚れた大きなバスケットシューズを履き店のエプロンをして狭い店内を慣れない足取りで右往左往していた。
 見かけない子だな、程度の感想しか湧かず、私はボックス席に一人で座り、水とおしぼりを運んできた彼女に何らかの定食を注文して、飯が運ばれてくるまでの時間潰しに本棚から漫画本を取り出して読み始めた。
 すると何やら妙な視線というか違和感を覚えたので目を上げると、少し離れたところのカウンター席に座って今日初めてみたばかりのアルバイト女子が頬杖をついてこちらをじっと見つめているのだ。
 私が気づいて彼女を見ても目を逸らすことなくじっとこちらを見つめてくる。
 その視線に普通の男ならドキッとするものではないかと思う。
 しばらく二人で見つめ合うような感じになったが、私のほうから無表情なまま目を逸らした。
 元々感情と表情を結びつける回路の接触が悪く表情が表に現れにくいタチだが、その時も全く表情すら変えず視線を外したと思われる。
 するとそれが彼女には無視したように見えたのかもしれない、隣の客が席を立った後片付けに来た彼女は、尻をこちらにわざとらしくグリグリ押し付けるようにしたり、注文した定食の皿を運んできて「ガン!」と音を立ててテーブルに置いたり、露骨に失礼な態度を示した。
 「シカトするんじゃねえ」という声は聴こえないが、そんな感じの態度に思えた。
 彼女の態度が客に対して無礼なものであることは私も認識していたが、その日は彼女に直接文句を言うことはおろかそれに気づいていない店のマスターに告げ口することもなく彼女が立っているレジのところまで行ってただ金を払って店をでた。
 この女いったいどういうつもりなのだ? という軽い疑問がその日は残った。

 数日経って次にその新顔アルバイトのいる日に店にいったときも、同じボックス席に座ると前回と同じようにカウンターからじっとこちらをみつめてきた。
 無論こちらは彼女の視線を感じて見つめ返し、何ら動揺する様子を見せることもなく視線を逸らすだけだ。
 何度彼女のほうを見ても彼女はこちらをじっと見ていて視線が合う。
 その日も失礼な彼女の態度に対して事を荒立てることをせず、無言で金を払って店をでた。

 おそらく三度目に彼女がいた日だったと思うが、その日店に入った私は彼女を見て驚いた。
 前の2回の姿とは打って変わった身なりになっていたからだ。
 すっぴんだった顔にはしっかり化粧をし、髪は片側に流すようなカールのかかったボブ。
 ノースリーブの黒いタイトなシャツに店のエプロン、体の線がくっきり映る黒のタイトなレギンスにピンヒールを履いていた。
 ファッションモデルかどこかのショットバーのウエイトレスかと見紛うばかりの色っぽい姿で店内を闊歩していたのだ。
 そして再び私が同じボックス席に座って定食給仕待ちをしているとやはり同じようにカウンターに座ってじっとこちらを見つめてくるのだ。
 そんなにナンパされたいのかきみは?
 とは思ったものの私はそれに乗る気は起こさなかった。
 「結婚」という言葉を使って私をグルーミングしようとした女と3ヶ月ほど偽りの交際をして断った後の、傷口からまだ血が滲むような状態だったからだ。
 未だ痛む生々しい古傷に触れるようなことはしたくない。
 女との好いた腫れたに係わりそうな刺激を敏感に察知するが半面拒否反応も強かったのだ。
 いつも通り失礼な態度に文句すら言わず、マスター夫婦に苦情も述べず、表情を全く変えないまま、真っすぐ目を見ながら彼女がいるところへ歩いていって彼女の顔を見ながら金を払ったのである。
 その時の私の顔があまりに無反応無表情だったからだろう、彼女も少しビビっているように見えた。

 無論、そこまでされてそそられなかったといえば嘘になる。
 学生アパートに帰ると、女情報通で有名な男の部屋へ行ってキャスケットの新しいアルバイトについて情報を持っていないか探りをいれてみた。
 存在はすでに男の間で知れ渡っていたらしく情報は詳しく収集済みだったようだ。

 彼女は同じ大学の経営学部同学年で、〇向さゆりという名だった。
 苗字は一目みて岐阜県出身と判る。
 私の所属する学部は男女半分ずつだが、経営学部で女子は10人に1人ぐらいの比率だ。
 少し顔が可愛い程度でも目立ってちやほやされる。
 彼女ほど美形ならなおさらだ。男子の間では注目の的なのだという。
 大学生協が定期発行する『RUC』という情報誌があったが、その表紙を飾る彼女の写真を見たことがあることを思い出した。
 表紙に採用されるのは「ミスキャンパス」と呼ばれる水準の女子ばかりだ。
 大学アメリカンフットボール部のユニフォームを着た男の胸板をバックにアメフトのボールを持って髪をかきあげるようにして微笑む姿だった。

 女情報通の彼の話によると、
「あの女はだけは止めておけ」ということだった。
 男関係が目立って派手なのだという。
 大学の朝の登校時に東門の前に男の車で乗りつけ颯爽と降りてきて注目を浴びたこともあるらしい。
 むろん他の男には「あの女はダメだからやめておけ」といって遠ざけていながら自分が狙っているという場合もあるから奴のいうことを額面通り受け取ることはできないが、そのような素行があったことは事実のようだった。
 そんな河原町三条のディスコにでも夜な夜な出没しそうな女がなぜ辺鄙な場所にあるちっぽけな男子大学生相手の喫茶店のような不似合いな場所でアルバイトなどしようと思ったのか。
 情報を得て却ってそこはかとなく興味が湧いた。

 彼女が露骨にナンパされたがっているような態度を見せるのが私だけだと自惚れることも無論なかった。
 同じ部活の後輩が近所に住んでいてキャスケットでたまに鉢合わせすることがあるから、彼にも彼女のことを訊いてみた。
 予想通り彼女は後輩の男にも同じことをしていた。
 彼は社交的だったので彼女に自分から声をかけ、会話をする仲になっているということだった。

 何度も店に行って定食を食べ、カウンターで頬杖をつく〇向さゆりに見つめられ、無表情に見つめ返してみる。
 表情一つ変えず、無礼に怒るわけでもなく、店主に告げ口するわけでもない。
 ナンパ目的で鼻の下伸ばして声をかけることもない。
 何度も同じ顔して店にくるから、話しかけたりはしないが、彼女も決して嫌われているわけでもないと認識したことだろう。
 おそらく私は彼女にとって一度も出逢ったことのない全く理解不能な得体の知れない種類の男と映ったのだろうと思われる。

 ついに彼女は「頬杖注視作戦」を諦めたようだった。
 何回目に彼女の顔をみたかすでに判らなくなったころのことだ。
 その日の姿は最初に彼女をこの店で見た日と同じようだった。
 化粧もせず、髪もテキトーで、白い垢ぬけないシャツとトレパンに薄汚れた運動靴だ。
 違ったのは私に見せようとする姿だった。
 店の奥さんと和やかに会話し大して可愛くもない肥満気味のマスター夫婦の小学生の男の子を愛でるようなしぐさをするのだ。
 明らかにこちらを意識したようすで演じている風にみえた。
 男が見ていないところではガキの後ろ頭を二三発張り倒しそうな女がなにを白々しいことこの上ない。

 その時彼女はおそらく私を「結婚するタイプの男」「夫タイプ」に分類していたのだろう。
 どんな色仕掛けをしても全く乗ってこない私の姿を見て、不貞や浮気をしない一途な愛妻家になりそうな男だと見積もった。
 だから私の前で家庭的な妻のような姿を演じてみせたに違いない。
 無論、私は表情一つかえず眺めて腹の中で唾棄していた。
「俺を舐めるな!」
 と思ったのだ。

 その頃私には結婚するのに適した夫にしたいタイプの男と見做されることは侮辱と感じる拒否反応があった。
 「アッシー」「メッシー」「貢ぐ君」という類の類型に基づいて男を用途ごとに使い分ける女どもが蔓延り始めていた頃だ。
 彼氏として適したタイプ、飯を驕ってもらうだけのタイプ、セックスフレンドタイプ、そして結婚して夫にするのに相応しいタイプだ。
 私はそれらどの「タイプ」でもない。
 夫に相応しいタイプなど、要するに好き勝手婚外性交を楽しんだ後、永久就職して妻の地位に収まろうという魂胆の女に最終的な引き取り手候補として目されたに過ぎない。
 どこぞの男のチンポが出入りして感度が鈍くなった使い古しポンコツ女など誰が引き取るものか。
 他の男が食い散らかした残飯なんか喜んで喰うか。舐めるのもいい加減にしろ。
 そう瞬時に即断していたからだ。
 すなわち家庭的な女を演じる彼女の姿を見ても、私は全く反応を変えることはなかったのだった。

 大学の校内でも彼女を見かけることはあった。
 いつも女同士で群れることはせず常に単独行動をしているようだった。
 私のところへ来る女は皆単独行動を好む子ばかりだ。
 正面から彼女が歩いて来てすれ違うとお互い気づくだろうが、私は一瞥する程度で無視して通り過ぎた。
 後は彼女が卒業していったからそれっきりである。

 徹頭徹尾〇向さゆりのことを無視し続けたが、私は彼女に対する悪感情を全く持っていない。
 何やら同じ傷を隠し持つ者同士のような気がしたからだ。

 後々にもきっかけを得て何度も彼女のことを想い出し、考えるでもなく考えてみることがあった。
 そして思い至ったことが「自己投影」という心理作用である。

 精神分裂病治療に実績のあるジョン・ウィアー・ペリーが心理療法家の仕事について問われてこう言った。

「こちらが自分の中心を外すことなく、ずっと傍にいる」(※注2)

 そうすると、荒れ狂った患者の情緒は次第に収まり落ち着いて自ら治ろうとする自己治癒力が働いてくるものだということを言い表した言葉だ。
 〇向さゆりに、失礼な行為や色仕掛けをされても、私は自らの中心を外さなかった。
 同情したり迎合したりするわけでもない。誘いに乗ることもなく拒否するわけでもなく、決して彼女の存在を否定する態度もとらなかった。
 これはペリーの言った心理療法家の姿勢そのものだったのではなかったか。
 彼女は理解不能な私という男を鏡として、心の奥底に潜ませた本当の自分の姿をそこに映そうとした。
 派手に男遊びに興じている女のようにみえて、本当はたった一人の男と結婚し添い遂げることに幸せを感じる女だったのではないか。
 愛される妻になりたかったのではないか。

 無口で何も判らない得体の知れない相手だから、自由自在に自らの本当の自画像をありのままに自己投影できる鏡のような存在になる。
 何も知らない相手に恋心が芽生えてしまう人の心のメカニズムとはそういうものであろう。

(※注1)
「3月8日のシンクロニシティ」
https://note.com/bright_bee106/n/ne1ee1762ea6c
(※注2)
河合隼雄『宗教と科学の接点』(岩波書店1986)、p13

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