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ほんとうのバナナの香りと、うそのバナナと自分。
近くにあるものや、いつもあるものによって、人の運命は大きく変わっていくものだ。
すべての展開は、「近くのもの」によって変わっていく。
すべての展開は、「遠くのもの」によって
変わっていく。
生まれて初めての体験。
海外旅行。
真逆の価値観の人。
手の届かない憧れの人との会話。
実現不可能な難題への挑戦。
ではない。
近くのもの、だなんて。
思い起こせば、
初海外のインド旅で人生変わったけど、
それに誘った大学2回のときの同じゼミメイト
がいなかったら行かなかったし。
いつも、西洋史のゼミをのんびり聞いて、
飲んで歩いて銭湯に入ってただけなのに。
親、もそう。
仕事でのきょうの経験もそう。
今書いてるnoteも、
一言いただいたコメントもそう。
そう、近くが遠くを変える。
と、気づくことが変える。
自分に一番近い自分が変える。
「うちの犬は、いいこ」と言ったときに、「どういうところがいいこなのですか?」とあらためて問うのは、ほんとうは野暮というものなのだ。
ああいうところ、こういうところと説明をはじめたら、「うちの犬は、いいこ」と言うときの、まろやかでにこやかで、こころがふるふるするようなあの気持ちよさは消えてしまうのである。
「いいこ」と感じて、そう言っているときの、「うちの犬とわたしの間」にある「とてもいいもの」は、すでにそこにあったものなのだから、それでいいのです。
「言った言葉」でも、
ある問いで掘り下げられた具体でも、
描写する説明でも、なく。
「いいこ、と言う時」の
空気と、自分の顔と、あいまいさで、
いいやん。
むしろそっちを、あたためておく。
自分に対して、野暮らない。
謙虚は倫理だけじゃなくて、美意識でもあり戦略でもある
私の素直さは、戦略だ。
世間ではなく、自分を渡り歩く戦略だ。
と、言い切るとスッキリする。
絵本を見ているときとか、小説を読んでいるときとか、歌を聴いているときとか、映画を観ているときとか、芝居を観ているときとか、料理を食べているときとか、だれかのでたらめな話を聞いているときとか、ぜんぶ、ぼくらは
だまされている。
素敵にだまされている時間を、ぼくらは大好きで、もっともっとだましてくださいと、作者にお願いしながらその時間を過ごす。
だまされるのはなんかいやなので、
じぶんをだますことにする。
楽しんでんだろ?
好きなんだろう?
うん。と、だましておく。
だまされたふりをしているくらいで、
だまされたとおもって、
気づいたら本気で好きになっている。
ああ、自分をだましつかれた、
とおもうものなら、
好きではなかっただけのこと。
うそや、でたらめを、宝石のように見せてくれたり、どこかの国の珍しい土産のように渡してくれたり、見せるようで見せないでじらしたり、機関銃のように撃ち出して息を止めさせたり、作者たちは、そういうことをするよ。
最高だね、と思う。
最高だね、自分。
だまされ上手、自分だまし上手。
それくらいでいて、やっと、
素直になれる。
自分は嘘ついてない。
自分に嘘をついてない。
と、思い込ませることからの開放。
だまされている。
ただのほんとうじゃ、広い世界は埋まらないので、無数の作者たちが、うそやでたらめを撒き散らす。
花だって、蜂だか蝶だかにウィンクしているだろ。
林檎は甘酸っぱくておいしいなにかを振りまいている。
素敵にだまされに行くのが、人々の「たのしみ」の時間。
素直にだまされにいくのが
素直な自分をみつけていく近道。
偽らざる自分は、
ほんとうの自分をさがしにいかないことの
中にある。
バナナよりも、バナナの香料のほうがバナナの香りだ。
ぶどうよりも、グレープ香料のほうがグレープの香りだ。
「いいのか、それで?」とも思うけれども、そういうことには、耐性をつけてきていると思う。
これはニセモノだ、と目くじらを立ててもしょうがない。
バナナの香料の匂いを、ぼくらはもうすでに、「ああ、バナナの香りね」と翻訳してたのしんでいる。
色々思い散らかしていると
わけわからんくなってきました笑
結局は、ああ、バナナの香りね、
ってことにしてしまえば、
シンプルに、素直に生きられる。
今日もお読みいただきありがとうございます。
バナナの皮がついているのが自分なのか、
皮がむけたら自分なのかー?
どっちも自分で、ええやん。