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ホールデン・コールフィールドにキャッチされたまま大人になった

先日、まったく親しくない人の葬儀に参列した。葬儀場の遺影で初めて顔を見たくらいの人だが、地方に住んでいるといろいろな付き合いがあるので仕方がない。

少し早く斎場に到着した僕は、フロントに飾ってある故人ゆかりの品などを眺めていた。すると、本ホールから進行司会の方の語りが聞こえてきた。それを聞いた僕は急激に唾を吐きたい衝動に駆られてしまった。もちろんそんなことは出来ないので我慢したが、もうその声が聞こえる場にいることに耐えられず自分の車に戻って時間をつぶすことにした。

僕はあの、葬儀サービス会社の葬儀司会進行の人の、悲しそうな雰囲気を押し殺したような喋り方が吐き気がするほど嫌いだ。
参列したことがある全国各地、どの葬儀サービスの司会もみんな同じような抑揚をつけた演技っぽい喋りをするので、葬儀の司会においてはあれが最適解とされているのだと思う。
もちろん司会の人に非はなく、なんならプロフェッショナルとして尊敬する部分すらある。葬儀サービス業全体で考えてもとても重要な仕事かもしれない。

単にその喋り方が嫌というわけでもなく、何がそんなに嫌かと言う説明は難しい。
頭がどうかしてると思われるのを覚悟で書くと、僕の中のホールデン・コールフィールドが「インチキじゃないか」とつぶやくからだ。
ほらね、気がふれている人の言う事みたいだ。

別に僕はイマジナリーフレンドのような存在が脳内にいるおじさんではない。でも限りなくそれに近いのかもしれない。そもそもホールデン・コールフィールドって何処の誰だよと知らない人は思うだろう。



「ライ麦畑でつかまえて」という小説がある。J.D.サリンジャーの代表作で、ピカレスクの形式で書かれた近代古典の名作だと思う。僕はコレにかなり影響を受けている。
中学生の時に初めて手に取り、共感して何度も読み返した。あまりに読み返すものだから本が傷んでしまい、何度か買い直した。人生通してこんな本は他にない。

ホールデンはその本の主人公。何度目かの退学処分を宣告され、高校の学生寮を飛び出してクリスマス直前の冬のニューヨークを彷徨い歩く。その数日間の出来事を読者に話しかけるような文体で書いてあるのが「ライ麦畑でつかまえて」("The Catcher in the Rye" キャッチャー・イン・ザ・ライ)だ。
物語に大アドベンチャーがあるわけではない。家に帰りたくない傷付いた繊細な少年が、悪態をつきながら大都会で地獄めぐりするだけとも言える。

ホールデンは社会を円滑にするための方便や仕組みを「そんなのインチキじゃないか」と言う。たとえば、別に会いたくもなかった相手と別れの挨拶をするときに「お目にかかれてうれしかったです」なんて言うようなことだ。もちろん生きていくためにはそういう事を受け入れなければいけないことも理解しているが、それでもインチキだと言わずにいられない。

社会性の乏しいホールデンを心配した妹に「将来なりたいものは無いの?」と聞かれた時に、「広いライ麦畑で遊んでいる子供たちが、勢い余って畑の端の崖っぷちから落っこちてしまわないように、彼らをキャッチしてあげる役」になりたいとホールデンは答える。タイトルのキャッチャー・イン・ザ・ライはこの事だ。妹はそんな仕事ないと言って怒る。それでも本当になりたいのはそれしかない。
現実世界はホールデンにとって穢れたインチキだらけの地獄のような場所で、それは容赦なく大人の仲間になることを強要してくる。

中学生の思春期真っ盛りの頃にこんな本と出会ってしまうと大変だ。いつも心の中にホールデンがいて、事あるごとにインチキを糾弾してくる。
とは言え、さすがに成人して社会を知るとホールデンもあんまり出てこなくなる。生きることはとても大変で、みんな必死に社会性を獲得していく。嫌いな同僚との挨拶だって大事だし、無駄に思える事にも意味があったりする。物事を円滑に進めるためだ。立ち止まってインチキだ何だと言っていられない。生活しなきゃいけない。

それでも。時々ホールデンは現れる。
それこそ本当のインチキである、似非科学の健康食品や民間療法などを目にすれば即座にうさん臭いインチキだと言葉にしてしまう。トラブルの元なだけなのに無視できない。
マナーを勝手に作り出すマナー講師なんかは一番ダメだ。インチキ野郎!と心中のホールデンが叫び出す。
本音ではない建て前に対してはだいぶ穏当になった。心にもない事を言うのは嫌だけれども、我慢我慢。それくらいはできる。

葬儀の司会進行の喋り方が気に入らないのは、彼らにとってそれは毎日時間割で予定に入っている業務の一環で、赤の他人であるのにそこに横たわる死者の人生を語るためにマイクの前に立ち、(たぶん)悲しくもなんともないのにエモーショナルな抑揚をつけて演劇のように型にはめて喋るからだ。溢れ出るビジネス悲壮感。

それはホールデンの言う意味ではインチキであるかもしれないが、そこにあるのはプロフェッショナルの努力でもあり、悲しむ遺族を刺激せず進行する最適の語り方とされている技術の継承者であることもわかる。
それがわかるので、僕は心のホールデンをなだめながら車から出る。もう司会進行は沈黙している。会場に入ると、ホール係がテキパキとこれまたプロフェッショナルを感じさせる敬意のこもった動きで参列者を焼香台へ導いている。焼香をして、各位に礼をし、僕は葬儀場を立ち去る。ホールデンも沈黙している。


だいぶ後になって刊行されたサリンジャーの最後の本「ハプワース16、1924年」の中でホールデンは戦争へ行き、行方不明になってしまう。その本を読んだとき、僕はもう大学生だったけれども大変なショックを受けた。中学からの親友が死んだような気持ちになった。
それでも、そのおかげで心の中のホールデンがある程度おとなしくなったのかもしれないと思っている。普段は行方不明で時々急に顔を出すくらいでちょうどいい厄介な友人なのだ。

僕だけ頭がいかれているのか?そんなことはない。世界中の創作物にホールデンはいる。
「天気の子」の家出少年、穂高君は「ライ麦畑でつかまえて」を持ち歩いている。
「フィールド・オブ・ドリームス」の隠遁作家テレンス・マンは原作小説ではサリンジャーその人として登場している。作中の市民集会で禁書にしろとやり玉に挙げられている本は明らかに「ライ麦畑でつかまえて」だ。
「陰謀のセオリー」でメル・ギブソン演じる記憶喪失の男は、本屋に行くたびに「ライ麦畑でつかまえて」を買わずにいられない。
「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」の中でも繰り返しホールデンのセリフが使われる。
グリーン・ディ、ガンズ・アンド・ローゼス、ビリー・ジョエル、他たくさんのアーティストが「ライ麦畑でつかまえて」を歌っている。
「レス・ザン・ゼロ」「ウォールフラワー」…まだまだあるだろう。

たくさんの創作物や人々が影響を受けてきた。そうしてカウンターカルチャーの申し子にして亡霊、ホールデン・コールフィールドはいまを生きる。

それは社会生活がイマイチ得意でない僕やあなたを、ライ麦畑の崖っぷちでキャッチしてくれる。押しつぶされそうなとき、崖っぷちでよろけたときに「あんなものインチキだから気にしなくていいよ」と言ってくれるのがホールデンだ。
きみ、ホールデンと友達じゃないの?思春期に出会わなかったんだな。もしかしたらだ、今からだって遅くないかもしれないよ。彼の体験談を読んでみたらどうだろう。すごく良いヤツなんだ。チェッ、僕は本当に彼のことが気に入ってるんだな。参っちゃうよ。本当にさ。


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