高村光太郎のことⅢ 木彫『油蟬』
今年の夏は、全国各地から酷暑の便りがとどく。
涼を求めて車を走らせると、頭上から降るような蝉の音。蝉時雨だ。
ジジジと鳴くのは油蝉、ミンミン蝉はその名のとおりで、カナカナカナと鳴くのは秋の蝉ヒグラシ。
今は油蝉の命あらん限りの音が濃い緑に満ちる夏山だ。
高村光太郎は昆虫のなかでも特に蝉が好きだったようで、木彫の蝉をいくつか残している。掌にのるほどの小さな愛玩物。彼のよき理解者だった妻智恵子が、これを袂に入れて持ち歩いていたと伝えられている。
高村が彫った愛すべき小さな木彫作品のことは以前にも書いた。展覧会用ではなく個人に所有される目的で、極めて私的な作品として作られた小さな木彫だが、彼はこれを作るのを殊の外楽しんでいたようだ。
そして作品のそれぞれに短歌が添えられていることを、最近知って驚いた。
例えば、木彫『油蟬』(「油蟬1」)には智恵子の手縫いによる白絹の袋が誂えられており、光太郎がこれに毛筆で短歌を書き付けている。絹の白地にくっきりと刻まれたような書が、さわやかで潔い。
白絹の袋(表側) 短歌
「天上にひひきとよもす夏の日のうたのうたひてさひしき小蝉」
(裏側)
「 油蝉一羽 大正13年夏 高村光太郎刀」 墨書毛筆
「油蟬1」以外の木彫蝉たちに添えられた短歌をみてみよう。同年大正13年の作とされる他二つの蝉。
「油蟬2」 白絹の袋 短歌
「いきの身のきたなきところとこにも無くかわきてかろきこのあふらせみ」
「油蟬3」 白絹袱紗 短歌
「ぢりぢりときしる蟬の音すみゆけば耳にきこえずたた空にみつ」
高村はこの時41歳。生活費を稼ぐために翻訳の仕事にも精力的にうち込んでいた。この木彫小品頒布もモデル代捻出のための策だった。一方、後に統合失調症を患う智恵子も、この前後年は健康だったという。世俗的成功を嫌い、父親光雲や美術界に盾を突いたため殆ど仕事がなかったが、貧しいながらも安定した時期だったといえる。
同年、高村は蝉制作の感興を二十二首もの短歌を詠んで残している。白い絹袋や袱紗に書き付けた短歌はこの中のものだ。
「私は何を措いても彫刻家である。」と、高村は自称している。では彼はなぜ短歌や詩を書かなければならなかったのだろうか。
高村はロダンを知ってから、彫刻はストーリーを表現するものでなないと考えていた。彼は彫刻が文学性を帯びることを防ぐための方法として短歌や詩を書いたのである。しかしながら彫刻も詩も、彼の芸術にとって欠くことのできない両輪だったと考える方が自然ではないか。蝉の形態に因る造形美を彫刻すればするほど、短歌を、あるいは詩を書かずにはいられなかったのか。
たしかに上記の短歌を見ていると、蝉に対するある種の文学的で主観的な見方が浮かび上がる。
「生き身のきたなきところどこにもなく乾きてかろきこの油蟬」
「どこに口があるかわからぬこの蟬に何をあたえんあたふるものなし」
蝉には生きていくうえでの浅ましさや汚さはどこにもない。高村はそのように詠っているのである。
蝉は樹液を食物としていることを、現在私たちは当然のように知っているが、過去の中国では蝉は露しか飲まないと考えられていた。そのため長い間、蝉には清潔、高潔という意味が与えられてきた。
おそらく高村は多くの漢詩にも精通していただろうから、蝉に対して卑しい世俗の汚から免れた清らかさを持つというイメージを抱いていたに違いない。そして高潔な生き方をするものとして、自らの姿に重ねあわせていたのではないだろうか。
最後に、「蟬を彫る」(昭和15年 1940年)という詩をみていこう。
これが書かれたのは、あの有名な詩集『智恵子抄』が編まれたのと同時期なのだ。
無我の境地で蝉を彫り、短歌を詠んだ、あの大正13年(1924年)から16年もの歳月が流れている。
昭和12年には中国大陸で日中戦争が始まり、昭和13年4月に国家総動員法が施行され、世情は戦争に向かって狂いはじめていた。妻智恵子が亡くなったのが同年の10月、国が急速に戦時体制を強めていった時期だ。「レモン哀歌」が智恵子没後初めての詩、その後「梅酒」、「亡き人に」が書かれ、昭和16年に詩集『智恵子抄』が刊行されたのである。
「蟬を彫る」(昭和15年)
時処をわすれ時代をわすれ、人をわすれ呼吸さえわすれて、忘我の境地で蝉を彫ったあの頃。あるいは時代が戦争へと突き進んでいくなか、彫刻家として蝉を彫っているときだけは時処や時代を超越し、芸術の高みに至れたということなのか。
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