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いつ頃から国号が日本(にっぽん)と呼ばれたのでしょうか?

絵画: 李白吟行図 水墨画 南宋 梁階筆 東京国立博物館蔵

倭と呼ばれたのは1世紀頃から?

 中国の後漢時代、1世紀頃(弥生時代後期)には、日本は倭と呼ばれていました。日本に送られた「漢委奴国王」の刻印がある「金印」がその証拠が残っています。

 その後、3世紀に魏呉蜀が争う三国時代が終わり、魏から王朝を受け継いだ西晋時代に編纂された三国志に「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんびとういでん)倭人条が、魏志倭人伝と呼ばれています。
それには、倭の邪馬台国女王卑弥呼の使者が、景初2年(238年)に明帝への拝謁を求めて洛陽に到着したとの記述があることから、日本が倭と呼ばれていたのがわかります。 なお、4~6世紀頃の大和政権では自らを倭(やまと)、大倭(おおやまと)、大和(やまと)と呼んでいたようです。

 年は下り、飛鳥時代の推古15年(607年)に聖徳太子が、遣隋使を送ります。その時の国書に「日出処天子至書日没処天子無恙(日出るところの天使、日没するところの天使に書を送る、つつがなきや)とあり、これを読んだ隋の煬帝は激しく怒ったと隋書倭国伝に伝えられています。この時代(7世紀)でも倭国と呼ばれていました。

遂に国号の名前に日本が登場

 701年(大宝元)年に制定・公布された公式令(くしきりょう:大宝律令)で始めて「日本」の国号が使用されました。(異説はあります)また、8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣唐使があったと記されているために、そのころにはすでに日本という国号は唐にも認められたものと思います。

 実際に、日本から遣唐使として唐にわたり、玄宗皇帝の時代(神亀2年725年)洛陽の司経局校書として任官、神亀5年(728年)左拾遺、天平3年(731年)左補闕と唐の高官となった阿倍仲麻呂(唐名:朝衡・晁衡)は朝廷で主に詩文関連の役職にあったことから李白・王維などの盛唐の詩人との付き合いがありました。

 それらの詩人との間で阿倍仲麻呂との緊密な付き合いをしていた証拠が唐詩選に残っています。以下は天平勝宝5年(753年)帰国する仲麻呂の送別の宴で王維が詠った五言排律です。そこには「日本」が出てきます。

送祕書晁監還日本國 王維 

積水不可極 積水(せきすい)極(きわ)む可(べ)からず
安知滄海東 安(いずく)んぞ滄海(そうかい)の東を知らん
九州何處遠 九州何れの処か遠き
萬里若乘空 萬里空に乗ずるが若(ごと)し

向國惟看日 国に向って惟(た)だ日を看る
歸帆但信風 帰帆(きはん)但だ風に信(まか)す
鰲身映天黑 鰲身(ごうしん)天に映じて黒く
魚眼射波紅 魚眼(ぎょがん)波を射て紅(くれない)なり

鄕樹扶桑外 郷樹(きょうじゅ)扶桑(ふそう)の外
主人孤島中 主人(しゅじん)孤島の中(うち)
別離方異域 別離(べつり)方(まさに)異域なりて
音信若爲通 音信(おんしん)若為(いかん)か通ぜん

訳)秘書監の晁衡(仲麻呂)が日本国に帰るを送る
水が深く積もった海は極める事はできないのだから
どうして青い大海原の東を知る事ができようか
世界では、どこが(日本:九州より)遠いのだろうか
万里の道を(馬車に)乗って空を行くようなものだろう
日本国に向かうにはただ(東方の)太陽を見て
帰りの船はただ風まかせ
大海亀の身体は天に黒々と映えて
魚の眼は赤々と波間に光る
故郷の樹木は(日の出る神木のある)扶桑の外にあり
あなたは絶海の孤島にいる
別れては、まさに異郷となってしまうが
便りをどのようにして通じることができるだろうか

また、仲麻呂の乗った船が難破したことを知った李白が次のような追悼の七言絶句を書いています。

哭晁卿衡 李白

日本晁卿辞帝都  日本の晁卿(ちょうけい)帝都を辞し
征帆一片遶蓬壷  征帆一片 せいはんいっぺん蓬壷(ほうこ)を遶(めぐ)る
明月不帰沈碧海  明月は帰らず碧海(へきかい)に沈み
白雲愁色満蒼梧  白雲愁色(はくうんしゅうしょく)蒼梧(そうご)に満つ

訳)晁衡卿を哭悲す
日本の晁衡卿は帝都長安を離れ
帆を張った舟は蓬莱の島々をめぐって行った
明月のような君は青い海に沈んで帰らず
白雲がうかび、愁いが出帆した蒼梧(そうご)に満ちている
(注)蒼梧(そうご)は現在の江蘇省連雲港の唐代の地名といわれています。

結局は難破船は安南(今のベトナム)に流れ着き仲麻呂は長安に戻ることができたのですが、その話は本題から外れるのでここではこのくらいにしておきましょう。

日本は当時の唐でニッポンと呼ばれていた!? 

私の推測では、日の発音は入声(促音)なので「ニッ」(呉音)か「ジッ」(漢音)と発音されたと思います。呉音は六朝時代(222年 - 589年)の発音です。隋唐時代の北方音を伝えた漢音よりも、呉音は中国語音の古形を反映すると言われており、もしかすると唐代の長安では当時から日本は「ニッポン」呼ばれていたのかもしれません。

なお、入声(促音)は昔の中国語の四声の一つですが詳細は、日本語に残る古代中国語の影響1~3に解説していますので興味があれば、お読みください。

次は日本がなぜマルコポーロの東方見聞録でZIPANGUと呼ばれたり、欧米でJapanと呼ばれたりしていることについて、私なりの解説を試みましょう。




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