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蔦の細道を歩く、旅と文学への憧れ(藤枝市岡部町、宇津ノ谷峠)

宇津ノ谷峠に来た。これから入ろうとする道は薄暗く、蔦(つた)などが生え茂っていて心細い。

宇津ノ谷峠、蔦の細道

宇津ノ谷峠を越える道として奈良時代から存在している「蔦の細道」は、『伊勢物語』の中で語られた面影を今も残している。

ゆきゆきて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かえでは茂り、もの心細く(中略)

伊勢物語(第九段東下り)

現在、峠を抜ける道は6種類存在しており、それぞれ古代、近世、明治、大正、昭和、平成に作られたもの。上書きされずに都度、新しい道を開拓したおかげで、すべての道がいまだに現役で使える。珍しいことだと思う。

左から大正、明治、近世、昭和トンネル、平成トンネル、古代の道

今回歩いたのは古代の道の「蔦の細道」。公園として整備された道を川沿いに進んでいくと、左手に石段が現れる。

蔦の細道の石段
つたの細道公園、砂防堰堤(えんてい)、落ちる水が泡立って涼しげ

パンフレットやホームページを見ると、豊臣秀吉が小田原攻めの際、蔦の細道にかわる新たな道を整備したとある。しかし現地の立て看板を見ると、新道は鎌倉時代に開かれたとある。どちらが正しいかはわからない。鎌倉時代に開かれて、戦国時代に整備されたという感じだろうか。

蔦の細道がなぜ廃止されたのか。それは実際に見て歩くことでよくわかる。とにかく道が狭い。そして勾配がきつい。これでは馬や軍隊が通ることができない。できたとしてもかなり時間がかかってしまうだろう。

猫石

歩みを進めると少し開けたみかん畑にでる。畑の向かいには何の前触れもなく、唐突に猫石なる名前の巨石。この辺りで悪さをしていた化け猫の成れの果て、らしい。「どこが猫だよ」と何回くらい突っ込まれているだろう。

紙本金地著色蔦の細道図、深江芦舟(ふかえろしゅう)、e国宝より

さて、冒頭で紹介した『伊勢物語』の一節は以下の歌へと続く。

駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり

伊勢物語(第九段東下り)

うつつとは現実、夢は眠る時にみるもの。「愛しいあなたに現実でも夢でも逢わないものだ」と詠っている。宇津ノ谷とうつつにかけた恋の歌だが、息を切らしながら歩いていると違った解釈が浮かんできた。

鬱蒼と茂る木々、左右を山に挟まれた暗い道、緻密に積まれた石段。低山だが急峻な蔦の細道、途中で一休みする人も多かっただろう。しかしウトウトと寝入ってしまっても、夢の中ですら人に会わない。ここはそれくらいに寂しい場所だという解釈。

蔦の細道図団扇、尾形光琳、いづつやの文化記号

蔦の細道には山賊が現れることもあったらしい。寂しいだけでなく危険な道でもある。近世に軍事的な理由から新道が開発されるまで、明るく広い安全な道を作らなかったのはなぜだろう。

その理由は人々の「旅と文学への憧憬」にあったのではないかと、自分は思う。蔦の細道が『伊勢物語』で取り上げられた効果は抜群だった。その後は『平家物語』、『十六夜日記』、『東関紀行』、『吾妻鏡』などにも書かれ、多くの文人歌人がその軌跡をなぞるように、宇津ノ谷峠を歌に詠み、絵に書き、実際に歩き越えた。

都から遠く離れ、もっと東へ。うら寂しく危険で幻想的な峠道を越えて、さらに東へ。旅に憧れ、歌に憧れ、憧れはただの道を物語の聖地へと変えていった。

現実には新道の開設が容易でなかったこと、わざわざ新たな道を作る必要がなかったことなど、理由はいくらでも考えられる。それに旅には多少のスリルや、聖地巡礼のような楽しみがあってもよい。この道はこのままでよかったのだ。

山賊など出るはずもない現代。往時よりも人の往来が少ないであろう宇津ノ谷の山頂には、ひっそりと在原業平(ありわらのなりひら)の歌碑が建っている。

頂上からの眺めは連なる山々、写真はなぜかぼやっと霧がかり夢のよう
帰り道の宇津ノ谷集落
統一された瓦屋根が美しい

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