アナログ派の愉しみ/本◎石川啄木 著『ROMAZI NIKKI』

抒情歌人の仮面を
かなぐり捨てた激烈な叫び


石川啄木の『ローマ字日記』として知られるのは、明治42年(1909年)4月7日から6月16日までの、中断をはさむ通算71日間の記録だ。

このとき23歳だった啄木は、函館に母と妻子を残して単身上京し、本郷の下宿に住まいながら、朝日新聞で月給25円の校正係をつとめていたが、家族の求めに応じて送金することもできず、小説の執筆もはかどらず、その一方で肺結核による喀血があって、まさしくどん底の日々だった。その絶望のあまり、なけなしの金を投じて放蕩するぶざまなありさまを詳しく日記に綴っている。4月10日、土曜日、昼間は自然主義哲学をめぐって自問自答を重ねたのち、夜には淫売宿で痴態に興じた一節を、わたしなりにローマ字文から和文に移してみよう。

「たったひと坪の狭い部屋のなかに明かりもなく、異様な肉の匂いがムッとするほどこもっていた。女は間もなく眠った。予の心はたまらなくイライラして、どうしても眠れない。予は女の股に手を入れて、手荒くその陰部をかきまわした。しまいには5本の指を入れてできるだけ強く押した。女はそれでも目を覚まさぬ。恐らくもう陰部についてはなんの感覚もないくらい、男に馴れてしまっているのだ。何千人の男と寝た女! 予はますますイライラしてきた。そして、いっそう強く手を入れた」

 
これが、前年にあの「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」や「たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて散歩あゆまず」を発表した(のち第一歌集『一握の砂』に所収)ひとのものだろうか?

 
啄木自身はローマ字を用いた事情を、妻に読ませたくないからとしているが、女学校で英語を学んだ節子夫人は容易に読み取れたことだろう。そんな表向きの理由より、おのれの生活苦への呪詛をストレートにほとばしらせたいとの欲求が、こうした形式を取らせたのではないか。当時、同じ朝日新聞で月給200円取りの社員だった夏目漱石が、啄木と同世代の青年を主人公に青春小説『三四郎』を執筆していたことと対比すると、抒情歌人の仮面をかなぐり捨てた『ローマ字日記』の革新性がきわだつ。

 
実際、上の引用のあとに続く文章はいっそう凄まじい。これほど激烈な表現の例を、わたしは寡聞にして現代の作家にも知らない。原文のまま掲げよう。

 
「Yo wa sono Te wo Onna no Kao ni nutakutte yatta. Sosite, Ryote nari, Asi nari wo irete sono Inbu wo saite yaritaku omotta. Saite, sosite Onna no Sigai no Ti-darake ni natte Yami no naka ni yokodawatte iru tokoro wo Maborosi ni nari to mi tai to omotta! Ah, Otoko ni wa mottomo Zankoku na Sikata ni yotte Onnna wo korosu Kenri ga aru! Nan to yu osorosii, Iyana Koto da ro!」

 
この日記が書かれた翌日に啄木がうたった歌を添えておく。かれが第二歌集『悲しき玩具』の出版を見ずに26歳で世を去るのは3年後のことだ。

 
「明日になればみな嘘になること共と知りつつ今日も何故に歌よむ」


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