アナログ派の愉しみ/映画◎成島 出 監督『銀河鉄道の父』
質屋という家業が
詩人を誕生させたのか
大学のロシア文学科で学んでいた当時、クラスの男子学生が新潟県の八海山で遭難死した。かれは大学のワンダーフォーゲル部に所属して専門的な技量を持ってはずだが、このときは初心者の友人とふたりで出かけてコースタイムよりもかなり遅れていたことへの焦りがあったのか、垂直に近い鎖場を先に立って降りていた途中で滑落したという。
やがて遺体の回収を待って行われた葬儀に同級生のわれわれも参列して、このとき初めてかれの実家が千葉県のある町で古くから質屋を営む資産家だったことを知った。のみならず、朝日新聞の本多勝一記者に心酔して硬派のジャーナリストをめざしてかれの胸中には、おそらく家業に対する葛藤があったのだろうこともまた――。
そんな遠い思い出がよみがえったのは、成島出監督の映画『銀河鉄道の父』(2023年)を観たからだ。舞台となっているのは、明治から大正・昭和にかけての岩手県・花巻。富裕な質屋の主人、宮沢政次郎(役所広司)のもとに待望の長男が誕生し、その賢治(菅田将暉)とのあいだに繰り広げられる対立と和解の物語だ。
最初の衝突は大正3年(1914年)3月、賢治が盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)を卒業したときのこと。寄宿舎から帰宅したとたん、父と子が口論を戦わせたのだ。
「明日から家業の修業に励め」
「イヤです。質屋はイヤです、お父さん。おれはエマーソンやベルグソンやツルゲーネフやトルストイの本を読んで勉強しました。質は農民から搾取することで成り立ってる。つまり、お父さんは弱い者いじめをしてるんじゃねえのすか」
「それは違う。いいか、賢治、カネのねえ農民に銀行はカネを貸さねえ。もしウチのような質屋がなかったら、娘っ子売ったり、首をくくるのがいっぺえ出てくる。断じて弱い者いじめなんかではねえ。質屋は農民を助けてるんでじゃあ」
「そったらことはキレイごとじゃねえのか、お父さん」
「うるせえ! とにかく明日から店さ出ろ」
やむなく賢治は店先に座るようになったものの、まるで仕事に身が入らない。代わりにもっと勉強したいと言いだすと、政次郎はこんな言葉を浴びせた。
「賢治、おめえは質屋になることから逃げてるだけだ」
ともあれ、妹トシ(森七菜)の取りなしによって希望どおり盛岡高等農林学校への進学を許された賢治だったが、そのうち人造宝石の製造・販売の事業を思い立って政次郎に出資をねだったり、つぎには学校を辞めて日蓮宗の信仰に生きると宣言して、ところかまわず団扇太鼓を叩きながら「ナムミョーホーレンゲーキョー」の題目を唱えてまわって政次郎の面目をつぶしたり。そんな支離滅裂な日々のまっただなかで、やがてかれはペンを執って詩や童話を書きはじめるのだった……。
おそらく他の商売では考えられない、質屋という家業をめぐっての父と子のこうした熾烈なドラマは、あのクラスメートの家庭にもあったのではないか? 実際、葬儀のときにひどく印象的な出来事に出くわした。ひととおりの儀式が済んで、斎場の大広間で「精進落とし」の料理が振る舞われた際、われわれ同級生が寄り集まっていたテーブルに、喪主の父親がふたりの娘を連れてきて告げたのだ。「これらは死んだ倅の妹たちです。このうえは婿を取って継いでもらわなければなりません。あなたがたのなかに長男じゃない方がいらしたら(わたしは対象外だった)ふたりの娘のどちらでも気に入ったほうを差し上げますので、ウチへ来てくださいませんか」と。息子の葬儀の当日に。そして、父親ばかりでなく、美しく化粧した姉妹も毅然として頭を下げた光景がいまも目に焼きついている。
わたしは思い知らされたものだ。世間一般では人権蹂躙とも受け取られかねない、ここまでの物狂おしいまでの覚悟が、質屋という家業を維持していくためには必要なのであったろうことを。
あまつさえ、かくも強固な呪縛が横たわっていたからこそ、そこから飛び立つために、賢治はあれだけのめくるめく詩や童話の世界を構築することができたのではないだろうか? 映画は、かれに肺結核の兆候が表れたころ、あたかも質屋の家業がその使命を終えたかのように、政次郎のあとを継いだ弟の精六(豊田裕大)が人造宝石ならぬ、鉄製品を取り扱う「宮沢商会」へと転業したことを伝えている。昭和8年(1933年)9月、宮沢賢治は37歳で世を去った。