アナログ派の愉しみ/本◎夏目漱石 著『こころ』(その2)

「明治の精神」と
「令和の精神」のあいだ


近代日本の代表的国民文学、夏目漱石の『こころ』(1914年)について、前回の記事ではミステリー小説と見なすことで浮かびあがってくる特異な仕組みを指摘した。仮に留学先のイギリスで見聞した『シャーロック・ホームズ』の方法論に学ぶところがあったとしても、すっかり自家薬籠中のものにして新境地を切り開いてみせたのは、やはり漱石ならではのしたたかな手腕に違いない。

 
そんなふうに感嘆しながらも、しかし、この作品の肝心要のポイントで思わず首をひねりたくなるのはわたしだけではないだろう。ミステリー小説の解決篇にあたる『先生と遺書』で、学生時代の「先生」は親友の「K」と同じ娘をめぐって三角関係となり、こちらが出し抜いて先に結婚の約束を取り付けたことから「K」が自死し、以来、「先生」はその事情を知らない「奥さん」との生活のなかでずっと罪悪感を引きずってきて、いつしか自分もあとを追うことを考えるようになった経過が綴られる。ところが、最後の最後に至って、がらりと話柄が変化するのだ。

 
 すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残つてゐるのは必竟時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。〔中略〕私は妻(さい)に向つてもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積(つもり)だと答へました。私の答も無論笑談(ぜうだん)に過ぎなかつたのですが、私は其時何だか古い不要な言葉に新らしい意義が盛り得たやうな心持がしたのです。

 
どうやら、いまになって自殺へと傾斜していく「先生」の心底には、親友「K」への罪悪感以上に明治の時代感覚というものが働いていたようだ。もともと漱石がこの作品を構想したのは、明治天皇の崩御と乃木将軍の殉死がきっかけだったから、「先生」のこうした独白は漱石自身の心情とも重なって核心的な主題をなしたのは頷けよう。しかし、だ。この作品をミステリー小説と見なした場合には、事件について最後にまったく別の動機が現れるのは、読者にとって後出しじゃんけんのようなもので一種のルール違反と言わざるをえない。もしこれが真相なら、前段の『先生と私』において、語り手の「私」はどこかで「先生」と「明治の精神」の関係に言及して伏線を張っておくのが筋だろう。

 
伏線を張っておくのが筋? いや、待て。実は漱石はちゃんと伏線を張ったのに、読み手のわれわれのほうが受け止められないでいるのかもしれない。そうした観点であらためて『先生と私』を眺めると、こんな場面が目に留まった。ある日、まだ出会ったばかりの「私」が一途に敬ってくるのに「先生」は首を振って、のぼせてはいけない、おいそれと他人を信用してはならない、自分でも自分を信用していないぐらいなのだから、と告げて、なおも異論を唱えようとする「私」に向かってこう畳みかけるのだ。

 
 「兎に角あまり私を信用しては不可(いけ)ませんよ。今に後悔するから。さうして自分が欺むかれた返報に、残酷な復讐をするやうになるものだから」
 「そりゃ何(ど)ういふ意味ですか」
 「かつては其人の膝の前に跪(ひざま)づいたといふ記憶が、今度は其人の頭の上に足を載せさせやうとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥(しり)ぞけたいと思ふのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、其犠牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないでせう」

 
どうやら、この痛烈なまでの自覚が「先生」にとっての、そして、漱石にとっての「明治の精神」の内実だったのではないか。それから一世紀後のわれわれはともすると、アラカン(嵐寛寿郎)主演の大ヒット映画『明治天皇と日露大戦争』(1957年)や司馬遼太郎のベストセラー大河小説『坂の上の雲』(1972年)以下の、おびただしい楽天的なメディアを通じて明治時代のイメージを形成してきたきらいがある。しかし、同時代を生きた文豪にとって「明治の精神」とはそんな生易しいものではなく、望むと望まざるとにかかわらず、自由と独立とエゴイズムを手に入れた人々はもっと深刻な孤独にさらされ、もはやだれもたがいに決して信用しあうことはできないと観じていたらしい。そして、「先生」はこうした底知れぬ孤独に逆に恋着して、時代精神との殉死を考えるに至ったかのように読み取れるのだ。

 
それは極東の島国がしゃにむに近代化の扉を開いた代償だったろうか。だとしても、後世のわれわれが高みから見下ろすいわれはどこにもない。むしろ、では、自分たちがいま生きている「令和の精神」とはどんなものなのか、それはわれわれにとってたとえ冗談であれ、果たして殉死に値するものなのかどうか、そこに思いを致すべきだろう。
 

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