アナログ派の愉しみ/狂言◎『以呂波(いろは)』
「勝ったぞ、勝ったぞ…」
教育とは対決に他ならない
去る(2023年)9月下旬、東京・府中市にある大國魂神社の秋季祭で大蔵流奉納狂言を参観する機会を得た。午後5時から開演予定のところ、たまたま近くで停電による鉄道の運休が生じたため一部出演者が遅れてしまい、その間の場つなぎとしてリーダーの大蔵彌太郎がひとしきり講話をしてくれたのはかえって好都合だった。
それによると、ざっと700年前の室町時代に能・狂言をあわせた能楽(猿楽)が成立したて以来、これだけ長い歳月にわたって続いてきた芸能は世界にも他に例がなく、とくに笑いをテーマとする狂言はだれにも親しまれて今日に至っている。そして、舞台上の基本となる演者の振る舞いや鳴り物の仕組みなどが説明されたのち、現在の宗家まで二十五世を数える最古の大蔵流狂言では稽古順に一番から百八十番の演目が定まっていて、本日はまずその一番、つまり入門したての初心者が初めて習う『以呂波(いろは)』をご覧に入れる、と話がそこにおよんだころには、ちょうど出演者も揃って準備が整ったらしい。
かくして、夕闇が降りてきた奥床しい神楽殿で『以呂波』がはじまった。舞台に立つのは大蔵彌太郎が扮した父親と息子のふたりだけで、その息子役を舟生弾というあどけない少年が演じたのも稽古順一番の演目にふさわしく、観客の笑みを誘った。
ややセリフは掴みにくいものの、ストーリーは平明でわかりやすい。父親がきょうは日柄もいいので、弘法大師から伝わるいろは四十八文字を息子に教えてやろうと思いつき、さっそく呼びつけたところ、息子はいかにも殊勝げな態度で、父親が「いろはにほへとちりぬるを……」と聞かせると、そんなふうにタテ板に水のようではなく一字ずつていねいに教えてほしいと頼む。そこで、父親が最初の「い」を口にすると、息子は「灯芯」と応じて「藺(い)を引けば灯芯が出ます」と返す(イグサを行灯などの芯にしたことから)。ついで、父親が「ろ」を口にすると、息子は「櫂(かい)」と応じて「舟には櫓(ろ)、櫂がいりまする」と返し、また、「ちり」には「お座敷には塵(ちり)がある、掃き集めて火にくべい」といった具合。要するに、いまのいたずらっ子にも見られるようにつぎつぎとダジャレを連発して大人をからかうといった次第だろう。
とうとう立腹した父親が、余計なことは言うな、わしが言ったことだけを口真似しろ、と厳しく命じて、四十八文字だけを反復させたうえで「もうよい、いて休め」と告げるなり、息子も「もうよい、いて休め」と応じ、父親が「おのれ、頭を張ろうぞよ」と拳固を振りあげると、息子も「おのれ、頭を張ろうぞよ」と身構えて「親じゃというて負くることではない」と投げ飛ばして凱歌をあげる。
「勝ったぞ、勝ったぞ……」
まあ、コメディとしては他愛ないものだし、観客も小難しいことは言わず、舞台を踏んだばかりの子役の少年が父親役の古参俳優を手玉に取るというアンバランスな立ちまわりを楽しめばそれでいいのだろう。もっとも、もう少し思いを羽ばたかせるなら、伝統芸能ではまず師弟のあいだの口移しによって芸が受け継がれていく基本を踏まえながら、それを稽古順一番の演目で引っ繰り返してみせたところに、笑いの芸能のしたたかさを見て取ることができるかもしれない。
さらにもっと思いをはばたかせれば、こうした上の世代から下の世代への伝承とは何も伝統芸能にかぎった話ではなく、世間の教育現場においても日常的に行われているものであって、学校の教師と生徒のあいだには協調ばかりでなく対立や葛藤が生じるのもごく自然なことだろう。すなわち、教育とは対決に他ならない、その結果、いつの間にか教える側と教えられる側の立場がすっかり逆転したとしても、つぎの世代が成長した証と受け止めるべき、とこの狂言『以呂波』は諭しているのだろう。
昨今の教室では「ICT教育」の名のもとに、生徒たちはひたすらデジタル機器とにらめっこするような授業がまかり通っているという。もしそこに対決の関係が介在しないなら、果たして教育と呼べる代物なのかどうか。