アナログ派の愉しみ/音楽◎マーラー作曲『アダージェット』
美は感染症と
親和性があるのか?
わたしの手元にいま、一枚のCDがある。読売日本交響楽団がかつて定期会員向けに配布した特典CDで、同楽団のライヴ録音が収められているのだが、その内容に思わず絶句してしまった。
メインは、常任指揮者セバスティアン・ヴァイグレの指揮でドヴォルザークの『新世界』のまことに立派な演奏。しかし、問題はそのあとの鈴木優人指揮によるマーラーの『アダージェット』だった。何気なく聴きはじめたのだが、ライナーノーツに、これは2020年7月5日に行われたものであり、「新型コロナウイルスの影響による活動休止後、再開最初の演奏です」とクレジットされているのを見たとたん、目の前の風景が一変する思いがした。
この『アダージェット』とは、グスタフ・マーラーが1902年に完成した『交響曲第5番』のなかで、アダージェットの速度標語(マーラーは「非常に遅く」と指定)を持つ第4楽章を指す。冒頭から葬送行進曲で開始されるという沈痛な面持ちの交響楽作品にあって、このハープと弦楽器だけで演奏される楽章はどこまでも夢見るように美しく、作曲の期間中に結婚した19歳年下のアルマに向けての「音楽のラヴレター」と言われている。そのへんの機微は、マーラーと親交のあったメンゲルベルクやワルターといった大指揮者が、この楽章のみを独立させて思い入れたっぷりの録音を残している事情からも窺われよう。
しかし、一般にこの曲が広く知れわたったのは、ヴィスコンティ監督の映画『ベニスに死す』(1971年)によってだろう。マーラーと同じファーストネームの初老の作曲家グスタフは創作活動に行き詰まり、心身の衰弱を癒すために水の都ベニスへやってきて、同じホテルに宿泊する貴族一家の美少年タージオと出会う。そうしたストーリーの全編に『アダージェット』が流れるのだ。地中海の季節風シロッコが運んでくる暑熱に炙られ、グスタフはうろうろとタージオのあとを追いまわしているうち、いつしかコレラの感染が襲ってきて、人気も絶えた浜辺で美少年の面影に酔いながら息を引き取る……。
そう、わたしが言葉を失ったのは他でもない、オーケストラがコロナ禍によって約5か月間の休止を強いられたのち活動再開にあたって演奏したのが、『ベニスに死す』でコレラ感染の光景を彩ったのと同じ音楽だったことだ。それはただの偶然の一致だろうか。映画のなかでグスタフは、あくまで芸術を理知的な営みと考える友人(十二音技法の作曲家シェーンベルクが投影されているらしい)に対して、こんなふうに声高に抗弁する。
「美とは自然に発生するものだ、芸術家の努力とは関係ない!」
もしかれの主張どおりなら、自然に発生するという仕組みにおいて、美は感染症と親和性がある、と言えるだろう。実際、イタリア貴族出身の巨匠ヴィスコンティは、保養地がコレラに侵されて消毒液まみれの惨状をさらすようになってから、いっそうタージオが美をきわだたせる様子を克明に描いている。だとするなら、われわれはあのコロナ禍に対しても、美学的なまなざしをもって見つめるやり方があっていい。わたしは気づかされたのだ。その災禍の懐からいましも、新たな芸術や未知の美少年が姿を現してこようとしているのかもしれない、と――。
たいていの指揮者は『アダージェット』をぬめぬめと光沢を撒き散らして耽美的に演奏するところ、鈴木優人はまるでバッハの管弦楽組曲のように透明で乾いた音響を積み重ねて進めていく。マーラーがこの「音楽のラヴレター」を贈ったアルマとの仲は、次第に修復不能の破綻をきたし、アルマは建築家グロピウスに心を移す一方で、マーラーのほうは精神科医フロイトの診察を受けたりしながらも死期を早める結果となった。と同時に、絶望のまっただなかで晩年の傑作を生みだしていくのだ。鈴木の演奏は、そうした人間喜劇のアイロニーも滲ませているように聴こえる。
この一枚のCDは、わたしをそんな落ち着かない感興へと誘うのである。