アナログ派の愉しみ/本◎楳図かずお 著『漂流教室』

いまごろはあの
不毛の砂漠を駆けめぐって


楳図かずおが今年(2024年)10月28日、88歳で世を去った。『14歳』を最後に新作の発表はなかったから、もう30年あまり前にマンガ家としての人生は終えていたわけだが、あのアフロヘア(?)に赤と白のボーダーシャツをまとった異才が東京・吉祥寺にどんと鎮座しているだけで、われわれの住む社会が平板にならず、妖しい陰影をもたらしてくれるような印象があった。かく言うわたしも久しぶりに『漂流教室』を読み返していたさなかに、突然の訃報に接したのだった。

 
『芸術新潮』(2022年2月号)が楳図の大型特集を組んだ際、「後世に伝えたい超傑作10選」のトップに挙げたのも『漂流教室』だった。1972~74年に『少年サンデー』で連載されたこの作品について多言は不要だろう。東京郊外にある大和小学校が授業中にいきなり爆発的な振動に見舞われると、校舎ごと別世界にワープしてしまう。事態を受け入れられない教師たちは発狂してたがいに殺しあい、あとに残された男女生徒たちに向かってリーダーとなった6年生の高松翔はこう宣言する。

 
「みんなきいてくれ! ぼくたちは未来へきてしまったのだ!! そしておとなの人はみんないなくなってしまった!! いままでは先生をたよりにしていたけど、これからはぼくたち自身で生きていかなければならなくなってしまった」

 
そこは環境破壊によって人間社会が滅び去った世界だった。校門の向こうには見わたすかぎり不毛の砂漠が広がり、どす黒いスモッグの雲に覆い尽くされ、突然変異した動植物や四つん這いの新人類たちがつぎつぎと襲いかかってくる状況に直面して、翔たちは力を合わせて生存のための壮絶な闘いをはじめた――。

 
当時、メディアがさかんに公害問題を取り上げるようになったとはいえ、日本にようやく環境庁が設置された(1971年)ばかりで、また、国連が世界の砂漠化防止行動計画を採択する(1977年)よりもずっと早いタイミングで、こうした環境破壊による人類滅亡のビジョンを提示してみせたのは、驚異的なイマジネーションといわざるをえない。果たして、楳図はこの未来図をいつの年代に設定していたのだろうか? 作中では、四つん這いの新人類が20世紀末にカタストロフィの起きたことを語り伝える一方で、翔たちは地下鉄の廃墟で旧人類の生き残りと出くわしているから、案外、それほどの時間差はないらしく、21世紀のなかばに差しかかったちょうどいまごろと見なしてもよさそうだ。

 
前記の『芸術新潮』の特集には楳図の語録も収められているのだが、そのなかにこんな言葉がある。

 
 僕はグチャグチャとかグニャグニャとかブヨブヨとかいう、要するに一定しない形は大好きです。自然界はみなグニョグニョ、グチャグチャで成り立っているのに、人工の世界は「まっすぐ」で成り立っていますよね。グニョグニョ、グチャグチャな自然界で育ってきた人間が、そこから抜け出して「まっすぐ」な人工的な縦横の世界を作り上げたわけですが、人間は結局「まっすぐ」がきれいで、グニョグニョ、グチャグチャが汚いんだと思います。人間は基本的には自然は嫌いなんだ、と僕は思っています。汚いものを片っ端からきれいにしていって人工的だらけにしてしまったり、どうにかして自然から抜け出そうとしている生物なのかな、と思います。

 
文字どおりに受け止めるなら、われわれが生活している「まっすぐ」の現代都市に対して、『漂流教室』が描きだした、砂漠に異形の生きものたちのうごめく未来図こそ「グチャグチャ、グニャグニャ、ブヨブヨ」の自然界であり、実のところ、楳図はこのディストピアが大好きだったのではないか? すなわち、全2242ページにおよぶ膨大なエピソードを通じて、少年少女を人工の世界から自分の愛する自然界へと投げ返してやろうとしたのであり、だから、たとえそこがどれだけ恐怖と混沌に支配されていようとも、われわれは読み返すたびにかぎりない郷愁を感じてしまうのだろう。

 
かくして、楳図もまた別世界へと旅立ったいま、翔たちといっしょになって不毛の砂漠をはしゃぎながら駆けめぐっているのかもしれない。といったら、あまりにも穿ちすぎだろうけれど、稀代の異才のひとであればそれぐらいの芸当はやってのけるような気もするのである。


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