アナログ派の愉しみ/映画◎マッツ・ミケルセン主演『悪党に粛清を』
デンマーク発の
西部劇が突きつけるもの
デンマーク発の西部劇を観た。監督クリスチャン・レヴリングと俳優マッツ・ミケルセンという、ともにデンマーク出身の映画人による『悪党に粛清を』(2014年)だ。
北欧デンマークと西部劇の意外な取りあわせに、わたしはキワモノめいた興味を持ったのだけれど、ところがどっこい、本家本元のハリウッド映画に肩を並べるオーソドックスなつくりにすっかり感心してしまった。いや、むしろオーソドックスに過ぎるほどだったかもしれない。かつて一世を風靡したイタリア発のマカロニ・ウエスタンが西部劇のパロディなら、デンマーク発のこちらは西部劇の批評といった趣があったのだ。
19世紀なかば、プロイセンとの戦争に敗れたデンマークから、元軍人のジョン(ミケルセン)は兄のポールとともに新天地を求めてアメリカ大陸へやってくる。苦節7年を経て生計のメドが立ち、祖国に残してきた妻と息子を呼び寄せる運びになったところ、やっと再会を果たしたその日に、駅馬車で出会った二人組の男によって妻子は命を奪われてしまう。ジョンはただちに男たちを銃殺したが、かれらが町を牛耳る悪党デラルー(ジェフリー・ディーン)の弟と手下だったことから、一味は復讐を宣言して、ジョンとポールとのあいだで血なまぐさい殺戮が繰り広げられていく……。
こうした筋立て自体、主人公がデンマーク人なのを別にすれば、西部劇としてごくありふれたものだろう。具体的な地名は示されないながら、スクリーンが映しだす荒々しい大地とこぢんまりした町の遠近法が見事だし、小心な住民たちと暴力を振りかざす支配者の対比も鮮やかに描かれている。しかし、わたしがオーソドックスに過ぎると受け止めたのは、こうした光景よりも、それらの根底に横たわっている論理のありようだ。
「歯には歯を」
悪党デラルーが口にしたセリフは、そのままジョンとポールの見解でもあった。こちらの血を流した以上は、必ずやり返して相手の血を流す。ひたすら暴力を応酬しあって、いずれかが滅び去るまでやめない点では、おたがいの両者の論理がまったく一致していたのだ。そんな両者のはざまにあって、町の運営をになう町長や保安官も同じ論理に呑み込まれ、ともすると甘い汁を吸うことをもって「法と秩序」と見なしている。
なるほど、それは西部劇を成り立たせてきた基本的な論理だったろう。ただし、ハリウッド映画の場合には、誇り高い人間たちの友情やら恋愛やら家族愛やらをちりばめ、古き良き開拓時代のノスタルジーをまとわせて差し出していたものが、この『悪党に粛清を』ではそうしたオブラートを剥ぎ取って、西部劇の病理をあからさまに暴露してしまったのだ。その意味で、映画の原題『The Salvation(救済)』はあまりにも意味深長だろう。
そしてまた、暴力と暴力を向きあわせる論理は西部劇にかぎったものではない。つい先年(2022年)アメリカで銃撃事件が相次いだとき、当時のトランプ大統領は現場のひとつとなった小学校のあるテキサス州で全米ライフル協会の会合に出席して、教師にも銃を持たせればいい、と演説し、つぎのように述べた。
「銃を持った悪人を止める唯一の方法が銃を持った善人だ」
まさしく、このデンマーク発の西部劇の登場人物にふさわしいセリフだろう。善悪の倫理的判断を持ち込んだところで、双方がおのれを善、相手を悪と見なすだけの話だから、なんら暴力の連鎖を止める力にはならない。だからこそ、21世紀を迎えた現在もアメリカ社会は銃を手放せずに苦悶しているのだ。
日本では武家社会が成立していく過程で、喧嘩両成敗の法により暴力の連鎖に歯止めをかける仕組みができた。そんな子どもだって理解できそうな知恵さえ、なぜアメリカは学ぼうとしないのか、まことに不可解だ。もっとも、そんな物言いは思い上がりかもしれない。ことは西部劇だけの事情ではなく、たとえば中国や韓国がもし日本を舞台に時代劇をつくったときには、いままでわれわれが目を向けてこなかった社会の病理が白日の下にさらされる可能性のあることを、この映画は教えてくれたとわたしは考えている。