アナログ派の愉しみ/映画◎ベルンハルト・ヴィッキ監督『橋』
1945年4月、
小さな町の橋の上で
『戦場にかける橋』(デヴィッド・リーン監督 1957年)、『レマゲン鉄橋』(ジョン・ギラーミン監督 1969年)、『遠すぎた橋』(リチャード・アッテンボロー監督 1977年)……と挙げてみると、戦争映画にとって橋というものは重大なポジションを占めているのがわかる。そのなかでも、わたしが最も衝撃を受けたのは、オーストリア出身のベルンハルト・ヴィッキ監督による『橋』(1959年)だ。こうしたドラマが戦勝国の側から描かれがちなのに対して、この作品は敗戦国の立場から容赦ない視点で捉えていることも貴重だろう。
第二次世界大戦の終盤を迎えた1945年4月、ドイツの小さな町は戦火とほど遠いのどかな雰囲気のなかにあった。地元の高校では、クラスメートの男子学生7人が、英語の授業で『ロミオとジュリエット』のセリフを訳して照れたり、放課後には川べりに集まってボートをこしらえたり、ガールフレンドと手をつなぐのが精一杯のデートをしたり、ときには横柄な父親と諍いを起こしたり……と、平凡な日々を過ごしていたが、そんなかれらのもとにもついに召集令状が届く。
7人が勇み立って兵営へ赴いたとたん、アメリカ軍の先鋒がベルリンに迫っているとの報が飛び込み、それを迎え撃つため部隊の出動命令が下される。しかし、まだ訓練もできていないかれらが最前線に出るわけにもいかず、はるか後方の守備任務につくことになったところ、そこはなんと自分たちがあとにしてきたばかりの、郷里でいつも通っていた石づくりの橋ではないか。いかにも間の抜けた成り行きだが、ともかく力を合わせてバリケードを築き、塹壕を掘り、木の枝に見張り所を設けて戦闘準備に取りかかった。
こうして夜が明けると、にわかに彼方からキャタピラの音が近づいてきた。軍の予測とは裏腹に、アメリカ軍はこのひなびた町を経由するルートに進出してきたのだ。少年たちが当惑しながら、おぼつかない手つきで銃器を構えて待ち受けていると、やがて鋼鉄の巨体を現した戦車隊とのあいだに銃撃戦がはじまった。アメリカ軍もここに守備隊がいるとは考えずに虚を突かれ、かれらの拙い攻撃がいったんは歩兵を薙ぎ倒し、戦車を火だるまにする戦果を挙げたものの、しかし、すぐさま本格的な反撃に転じた敵の前にひとり、ふたりと無惨に命を散らしていく。あとに残った者は我を失ってパニックに陥ったあげく、こちらが未成年と気づいて投降を勧めてきたアメリカ兵を撃ち殺し、また、事態の収拾に駆けつけた味方の兵士にもやみくもに機関銃を浴びせかけ……。
ここまで戦争の不条理を突きつめた映画は稀だろう。一体、かれらはなんのために戦い、なんのために死んでいったのか。
日本浪漫派の論客、保田与重郎は『日本の橋』(1936年)のなかで、とかく侘しいたたずまいの日本の橋と比較して、重厚さがきわだつヨーロッパの橋についてこんなふうに論じている。
「十八世紀の克服者と云われ、欧州を一単位とした近世唯一の人といわれるナポレオンは、巷説のままに従えば橋梁の歴史の中でも又近代の創始者である。この稀有の巷説によれば近代の鉄栱橋はナポレオンの発明というのである。ものの終りにつなぎ仲介する橋は、彼岸に此岸を結び、あれとこれと同化させた。人間のみのもつ愛情の手だて、あるいは有形と無形との交通の形を示すものであった。そしてこの冷たい愛情は常にものの終り、ものの別れゆかねばならぬところに具象された」
いささか情緒に流れた観察のようでもあるけれど、なるほど、こうしたナポレオン以来の伝統に拠って立つならば、ヨーロッパの橋とは、ひとの世の諸般のはじまりと終わりが交錯する場所であり、名も知れない町の橋の上で、7人の少年たちがいきなり死と向き合うことになったのも必然だったのだろう。
あまつさえ、わたしの目には、日常生活ではノッポやチビの凡庸な存在でしかなかったかれらが、ダブダブの軍服をまとい、ぶざまな手つきで銃器を抱え、朝霧に包まれて橋の上に居並ぶやいなや、全身から輝かしい光を放つように見えた。最後には半狂乱となって自滅していったとしても、それはやはり英雄の姿だったのではないか。たんに反戦映画というのでは割り切れない、戦争をめぐる実存的な諸相を、この敗戦国の作品は深い祈りとともにスクリーンに刻みつけていまに伝えていると思う。