アナログ派の愉しみ/映画◎松林宗恵 監督『世界大戦争』
核戦争に対して
われわれの想像力はいま
朝鮮半島の北緯38度線付近で「南」が大規模な軍事演習を行っていると、これまでさんざん警告してきた「北」は業を煮やし、小型の核爆弾を使って演習部隊を全滅させてしまう。この事態に驚天動地の衝撃が広がったものの、かろうじて国連の介入により停戦協定の成立を見ることができた。だが、世界が胸を撫でおろしたのも束の間、今度は北極圏で対立関係にある両国の空軍同士が接触して核攻撃を仕掛けあい、それをきっかけとして中近東や南アジア、台湾海峡など各地の紛争地域でつぎつぎと軍事行動の連鎖反応が生じ、ついに第三次世界大戦へと発展して全面的な核戦争が勃発する……。
これは近未来の軍事シミュレーションではない。いまから約60年前に公開された特撮映画、松林宗恵監督の『世界大戦争』(1961年)の設定だ。第二次世界大戦の終結から十数年が経ち、敗戦国・日本では経済復興を実現してようやく人々の生活が落ち着いてきた一方で、世界はアメリカを盟主とする資本主義陣営(西側)とソ連を盟主とする社会主義陣営(東側)にはっきり色分けされ、双方が強大な核兵器を保有して勢力の拡張をめざす「冷戦」構造のもとにあった。そうした当時の国際情勢を如実に反映したもので、スクリーンの隅々から一触即発の緊張感がひりひりと伝わってくる。
とりわけ観る者を胸苦しくさせるのは、そうした地球規模の危機をテーマとしながら、市井のしがない庶民たちを主役としてストーリーが運んでいくことだ。外国人記者クラブの運転手をつとめる田村茂吉(フランキー堺)は、最新のニュースに接しやすい立場にいても株の売買に活用するぐらいで、なんの不安もなく、せいぜい病気がちの妻・お由(乙羽信子)を案じたり、長女・冴子(星由里子)の結婚話に気を揉んだり、まだ幼い次女・春江や長男・一郎への土産に迷ったり……といった平凡な毎日を送っていたが、そんなかれらの耳にもやがて人類の破滅へと向かう足音が届くようになる。冴子の婚約者の高野(宝田明)は、デートのさなかにこう語りかけた。
「わずか4個の水爆で日本はなくなるんだ」
そして、続ける。人類が初めて火薬を使ったのは、モンゴルが日本に攻め込んだ元寇の役のときだった。初めて原爆を使ったのは広島・長崎で、初めて水爆を使ったビキニ環礁の実験では日本の漁船が被曝した。つまり、日本という国は先駆けて火薬、原爆、水爆の洗礼を受けてきたわけで、だからこそ、われわれは世界に向かって平和を訴えていく使命があるのだ、と。実際、総理(山村聡)や外相(上原謙)以下、政府は一丸となって関係各国に戦争の回避を働きかけ、それが無理でも核兵器の使用禁止を求めていく。決して絶望に与しない、その一途な姿は崇高とさえ映る。
こうした日本国家のあり方は絵空事なのだろうか? まさか。
「やい、原爆でも水爆でも来ちまいやがれ。おれたちの幸せには指一本触れさせねえからな。おれたちは生きてんだ、チキショウ。庭のチューリップの花が咲くのを見てえんだ。カアちゃんには別荘建ててやんだ。冴子にはすごい婚礼させてやんだ。春江はスチュワーデスになるんだ。一郎は大学に入れてやるんだ、おれが行けなかった大学によ!」
しかし、政府の努力もすべて無に帰して、海のかなたから核弾頭を搭載したミサイルが迫るなか、田村茂吉は声を張り上げて叫ぶ。あたりは避難する人々でごった返しパニック状態にあったが、いまさらどこへ逃げる先もないとして、茂吉は家族一同にいちばんの晴れ着を着せ、テーブルにあるだけのご馳走を並べ、せめても笑顔で最後の食事をしようとしたのだが、もう間もなく核爆弾が炸裂する青空を見上げて、やはり激情を抑えられなかった。それは、この期におよんでいかにも愚かしい言葉の羅列だったかもしれない。とはいえ、じゃあ、同じ局面に立ったとき、われわれだってどれほどの言葉を発することができるのか。そうした叫びも一瞬の閃光に呑み込まれて、映画は、富士山を聳えさせながら灼熱のマグマのかたまりと化していく日本列島を凝視する――。
今日、核戦争の危機がかつてないほど高まっているといわれ、そのときは日本も真っ先に攻撃目標となることが指摘されているなかで、果たしてメディアはこの作品に匹敵するだけのメッセージを発信しているだろうか? こうした現実と馴れあって、もしわれわれが核戦争に対して想像力を減衰させているとしたら、それこそが恐ろしい事態なのかもしれない。
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